「が」「は」「も」「部分否定」「全面否定」はじめに
まだ完璧にはまとまっていないが、100%を求めるとおじさんはすでに鬼籍にはいっているかもしれないのでとりあえず書くことにした。
べつの観点でまたこれらの助詞について書くかもしれない。
たぶん書くだろう。
十把一絡げでまとめられないからだ。
物理学の世界の相対性理論とか不確定性原理に匹敵する難題だからだ。
冗談ではなくとくに日本語は西洋の言葉とちがうだけではなく複雑で難解な、いや日本人でも理解不能なところがたくさんあるカオスの世界なのである。
おじさんはノーベル日本語学賞がもらえるかもしれない😄
この記事の部分否定、全面否定は英語文法のものとはちがい、文字どおり「一部を否定するのか」「全部を否定するのか」という意味でつかっている。
「が」「は」「も」の基本的性質と意味
なんども書いてきたがおさらいしておこう。
肯定文
これはあまり悩むことはない。
- が:単なる叙述
- は:主題
- も:並列
それぞれについてもうすこし説明しよう。
が
単なる叙述。
なんの感情もない。
よって、場合によってはぶっきらぼう。
また「は」が逃げ道を作るのにたいして「が」は機械的なので「強調」「攻撃的」ニュアンスになることもある。
は
主題
何について話しているか。
だから、その背後には
「これに限り」
「他のことは知らんけど」
「他にも選択肢やこれとちがう例はあるよ」
という意味合いをふくんでいる。
対比
「これに限り」に準ずるのだが、
「は」を持ち出してきたときは「他の存在」を仄めかす。
「肉は好きだけど…」
と言ったらその後ろに「他の例」「反対のもの」「逆接」
この場合は「嫌いなものがある」ということを仄めかしている。
後ろに「野菜は嫌いだ」が接続する。
他のことに言及しない、あるいは考えもしないのなら
ただ「肉が好きです」という。
も
並列
これも言わずもがな。
リンゴもミカンもブドウもある。
いくつか例を並べるときにつかう。
いろいろ選択肢はあるよ。
他にも例があるよ。
「リンゴもあるよ」
と言ったら
「他のものもあるよ」と心の中で言っている。
日本人なら相手も「他にもあるんだな」と感じる。
友達同士なら
「『も』ってことは他にも何かあるの?」
と聞くかもしれない。
だから、もし否定文になると全面否定へと顔を変える。 (本日の本題)
否定文
さて問題になるのが否定文だ。
例文を挙げたほうがわかりやすいだろう。
見たことがない (ただの叙述)
日本人はあまり「が」をつかわない。
その理由はぶっきらぼう、つっけんどん、場合によっては相手に対して攻撃的・脅迫的と捉えられるからだ。
だからつぎの「は」を圧倒的につかう。
見たことはない (部分否定。婉曲)
「これに限り」「対比」「逃げ道のは」
見たことはない。
(でも、聞いたこと、考えたことはあるかもしれない)
逃げ道の「は」
やさしさの「は」
思いやりの「は」
である。
相手の話や意見を正面から叩き潰すのではなく、他の場合もあるけど「これに限り」ないという言いかただ。
日本人はやさしいのだ。
見たこともない (全面否定)
見たこともない。
聞いたことも、考えたこともいっさいない。
すべてない。
リンゴもミカンもブドウも何もないのだ。
これは全面否定。
強い否定になる。
そもそも
「何はない」
とは言わないだろう。
「何もない」
と言う。
会話では
「なんにもない」
という。
「が」とおなじように「も」もあまりつかわない。
「も」をつかうとちょっと古めかしい、固い感じがする。
「は」がいちばんふつうだ。
みっともない
これはもともと
「見とうもない」である。
古語のウ音便。
これは今でも西日本では使われている。
もともと日本の中心は京都・奈良・大阪だったから。
見たく→見たう→見とう
お早く→お早う
とおなじだ。
「見たくはない」ではなく
「見たくもない」なので
見るのはもちろん、聞くのも考えるのもいっさいごめんだねという強い否定である。
これがもし
「見たくはない」であれば
「 (見たくはないけど) 話だけは聞いてやってもよいぞ」
という意味合いになる。
すこし相手に逃げ道を与える。
思いやりの「は」だ。
「やっても」の「も」は並列の「も」で、
「聞いても、考えてもいいよ」という言外の意味がある。
二重否定
ないことはない
外国人がいちばん理解できない言いかただ。
で、どっちなん?
英語に無理やりすると
It’s not that it isn’t/doesn’t…
だが、英語圏の人はこんな言いかたはしない。
そもそもこういう言いかたが存在しないのだ。
言語はすべて翻訳できるかというとそうではない。
その概念自体が存在しないと翻訳不可能なのだ。
言語によっては「持つ」という概念が存在しないので翻訳できない。
概念が存在しないということは、たとえばあなたに相対性理論について説明することだ。
文法がわからないのではなく、意味がわからないのだ😄
ない×ない=ある
で、回り回って肯定になるのだがただの肯定「ある」とはニュアンスが変わる。
さてここまででもお腹いっぱいだが二重否定に行ってみようか。
見ないことはない
ない×ない=ある
なので、結論としては「見る」のだ。
しかし積極的に喜んで見るのではなく
「たまに見ることはあるけどあまり好きじゃない」
「見ろと言われれば見るよ」
「見ないと殺すと言われれば見るよ」
ということだ。
「食べないことはない」も同様。
見ないこともない
ふつうの否定では「も」は全面否定・強い否定になってしまったが二重否定の場合は事情が変わる。
「見ないことも、聞かないことも、考えないこともない」
というように様々な否定を否定しているので、総じて肯定なのだ。
ただ、上の「見ないことはない」とおなじように積極的な肯定ではなく、
「たまに見ることがあるよ」
「見ろと言われれば見るよ」
ぐらいの気持ちと頻度だ。
両者のちがい
見ないことはない>見ないこともない
両者のちがいはあまりないが、しいて言うなら、
「見ないことはないけどあまり好きじゃない / あまり見ない」
「見ないこともないけど、進んで / しょっちゅう見るわけではない」
のように「も」のほうが若干弱気だ。
二重否定の場合は「は」のほうが後ろに逆接・否定の意味を強く持っている。
また二重否定でも「も」はあまりつかわない。
疑問詞
か (肯定)
いつかある。
どこかにある。
だれかいる。
何かある。
どうにかなる。
も (否定)
いつもない。
どこにもない。
だれもいない。
何もない。
どうにもならない。
これは全面否定だ。
昨日も、今日も、明日も、いつもない。
ここにも、そこにも、あそこにも、どこにもない。
助詞の省略
日本人はとにかく省略するのが好きだ😄
いや、日本人にかぎらず人間は怠け者なのでできるだけ楽 (を) しようとする。
主語の省略はよく知られているが、助詞も会話ではしばしば省略される。
というよりむしろ省略するのがふつうで、助詞を入れると固い文章になってしまう。
教科書やNHKのアナウンサーが読む文章だ。
ふつうは
「見たことない」
という。
「が」「は」「も」どれもつかわない。
だからそのどれにはいるのかは文脈によるかあるいはおたがいにわからない場合もある。
それで何も問題 (は) ない。
むしろ強調したいときだけ助詞を入れる。
「そんなもん見たことがないわ⤵️」と言うと強い口調になる。
日本人は「リンゴを食べる?」とは言わない。
「リンゴ、食べる?」と言う。
「うん。食べるう」にいたっては主語も目的語も省略。
いまリンゴの話をしてるんだし、食べるのは自分に決まってるのだから言う必要がないのだ。
そこで
「何を?誰が?」と聞く日本人はいないのだ。
もしいたらみんなに嫌われるだろう😄
定型句
そうにない
ただ「できないだろう」という推測。
「明日は行けそうにない」
ただの推測。
そうもない
「これも、それも、あれも、何もできそうにない」
という全面否定。
とても強い否定的な気持ちが込められている。
「明日は行けそうもない」
どうにしてもどうにもならないだろう。
残念だ。
ようがない
ただ「方法・手段がない」と言ってるだけ。
「言いようがない」
説明する方法がない。
ようもない
「これも、それも、あれも、どれもできないだろう」
という強い否定。
「言いようもない」
説明する方法もないし、なんとも形容しがたい。
変化球
言葉はつかわれるほど擦り切れていく。
意味も変わっていく。
もとの意味がよくわからなくなったものはさらに意味が変わってしまう。
しょうがない
もともと
「し様がない」
「やり様がない」
で、方法・手段がないから諦めるということだ。
「仕方がない」も同様。
「仕」は「する」の連用形「し」の当て字である。
「仕事」の「仕」も同様。
つまり「すること」と言ってるだけ。
しょうもない
「やり様もない」から意味が変わって「くだらない」「つまらない」という意味になっている。
バカバカしすぎて救いようもないし、フォローのしようもないということだ。
埒も無い
とりとめがない。たわいもない。無秩序。めちゃくちゃ。
埒 (らち) は馬場の柵のこと。
つぎの言葉が変化したとされる。
﨟次 (らっし) も無い
﨟次 / 臘次 (ろうじ→らっし)
法﨟 (ほうろう) の順序→物事の正しい順序。秩序。次第。
﨟 (ろう) 。僧が出家後に安居を終えること。その年数。
臈。異体字。
さらにこの言葉が変化したと思われる方言。
岡山弁では「やっちもねえ」
甲州弁では「だっちもねえ」があるらしい。
方言だと思われているものはじつは古語であることが多い。
