目次をご覧になりたい方はクリックしてください→
「なら」「たら」「ちがい」
やっと「なら」「たら」のちがいに漕ぎつけました。
両方とも「仮定」の意味でつかいますが、
ざっと書くと
名詞+なら
動詞+たら
です。
えっ?
でも「乗るなら飲むな」って言うじゃない。
ここが謎だったんだけど、その正体を探っていくと「わかった!」とはならず、さらに日本海溝より深い淵にはまっていくのでした😅
言葉は物理や数学のように定義されていない
ここで言い訳めいていますが、そもそも言葉とは文法学者が「定義したもの」ではなく、「人間が自然につかいはじめた」ものであり、つねに「変化しつづける」ものだということを再認識しました。
はじめに文法学者ありき、ではなく
はじめに日常会話ありき、です。
文法学者はその中から規則性を見つけ出してまとめただけです。
だから、「例外」はたくさんあります。
法律では「この限りではない」というやつです。
現代語は古語とかなりかけ離れていて、まるで外国語のようにちがうものもあれば、現代に引き継がれているものもあります。
言葉の乱れと言うなかれ。
古語であっても奈良→平安→鎌倉→室町→江戸時代の時の流れの中で大きく変化しています。
またそれは、「今日からこの使いかたにする!」と役人が宣言してきっちり変わったわけではなく、ある地方のある人がつかいはじめて、それに必要性がなければいっときの流行り言葉として消えていき、便利なつかいかたであれば人々に広がっていき、やがてそれが「正しい日本語」として市民権を得ます。
何をもって正しいかというと、辞書や教科書やNHKのマニュアルに書いてある言葉ではなく、その時代とその地域においてより多くの人がつかう言葉が正しい言葉です。
変わる言葉もあれば、両方生き残る場合もある
完全に入れ替わってしまえば問題ないんだけど、言葉が変化していくときに片方が完全に抹殺されることなく共存して両方の使いかたがつかわれつづけるということがあります。
たとえば「驚かした」「驚かせた」という2通りの活用がありますがどちらかはまちがいなんでしょうか?
これは前者が「驚かす」という古い形、後者が現代語の「驚かせる」という形で両方残っているためにこういうことが起きます。
さらにこの関連語には「おどす」「おどかす」「おどろく」などがあり複雑怪奇です。
紛らす、紛らかす、紛らわすなんか最強ですね。
どちらが正しく、どちらがまちがいともいえない。
両方とも正しい。
元はべつの言葉が混ざり合う
これも言葉を複雑にする要素です。
古語に遡っていくと、古い時代には存在せずたとえば室町時代になってから現れる言葉などがあります。
そして完全に自立して新しい言葉が生まれるのではなく、ほかの言葉が変化したり、活用の一部だけ借用したりすることがあります。
さあ「なら」「たら」に行きましょうか。
とその前にもう1つ
ば
仮定の接続助詞です。
そもそも「なら」「たら」は仮定形ではなく未然形です。
古語には仮定形なるものが存在しなかったので
未然形+ば=仮定
「未然形+ば」
で仮定の意味を表しました。
だから、
「なら」「たら」は
もともと「ならば」「たらば」です。
なら
名詞+なら
「なら」は現代語の断定の助動詞「だ」の仮定形です。
「だ」は室町時代になってから現れた言葉で、しかもほかの活用形は江戸時代になってから加わりました。
かなり新しい言葉です。
「だ」「じゃ」の語源 ~ 古語とのつながり ~ やまとことば
「なり」の活用を借りた
古語の「だ」の未然形は「だら」ですが、已然形は「なら」
これは「なり」の未然形・已然形の形です。
現代では「だらむ (「む」は推量の助動詞) 」「だらう (だろー) 」→「だろう」という形が正しい未然形の推量の形としてつかわれていますが、いっぽう
「なり」の未然形の「なら」+ば→ならば→なら
が仮定の意味として独立してつかわれるようになりました。
そして現代語の「だ」の仮定形として定着しました。
前述のとおり「だ」の活用は江戸時代になってからつかわれはじめたので「だらば」という言いかたは日の目を見ることなく、「ならば」にその座を奪われてしまいました。
名詞+だ
現代語の「なら」を「だ」の仮定形とするなら、名詞にしかつかないので動詞につけるのはおかしいです。
ここが「ちょっと気持ち悪い」と感じるゆえんです。
花だ。男だ。
とはいうけど、
行くだ。見るだ。
とは言わないでしょう😄
なり
しかし、古語の「なり」は名詞だけでなく、動詞の連体形にも接続します。
現代語でもそうですが、四段活用 (現代の五段活用) と一段活用で、連体形は終止形 (辞書形) とおなじ形です。
だから「なら」を「なり」の未然形として扱えばまちがいではありません。
ただし、じっさいに文例を探してみると、この動詞の連体形に接続する用法はとてもすくないです。
百人一首の中に1首しかありませんでした。
例:
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (喜撰法師)
これは現代語にすると「言うだ」という言い回しなのでやはり不自然なんです。
あとはやはり圧倒的に「名詞+なり」のつかいかたが多いです。
動詞に接続するのは不自然
ここが微妙なところです。
現代語では名詞にしか接続しない。
古語でもほとんどの場合、名詞にしか接続しない。
では「動詞+なら」はまちがいでしょうか?
ちょっと置いといて「たら」を説明しましょう。
たら
動詞+たら
「たら」は現代語の過去の助動詞「た」の仮定形です。
日本語学校では「タ形」として教えています。
こちらは
「花たら」とか「男たら」とかぜったいに言わないので悩む人はいないでしょう。
「た」のもとの形「たり」の仮定の形として「たらば」は奈良時代からつかわれている由緒正しい日本語です。
繰りかえしますが「たら」は未然形です。
例:
明日雨が降ったら、運動会は中止です。
仮定法過去
英語には仮定法過去というのがあります。
仮定法過去「If I were a bird. (鳥だったらなあ~) 」
例:
If I were a bird. 鳥だったらなあ…
Would you know my name, if I saw you in heaven.
もし天国で会ったら、ぼくの名前がわかるだろうか?
なんだ仮定や未来のことなのに過去形っておかしいじゃんか、っていうけど日本人のあなたも知らずにつかってますよ😄
上の訳文がすでにそうなっていますが、「鳥だったら」「会ったら」って過去形つかってるじゃないですか。
運動会は明日なのに「降ったら」ですよ😂
時系列で説明することもありますがそれでは説明できないこと、法則に合わないこともあるのでやはり「仮定」のニュアンスとして「タ形」をつかうと考えて教えたほうがいいでしょう。
とくに英語圏の生徒には「おまえらも仮定法過去つかうやろ。どや」と大威張りで言えます😄
Japanese tense 日本語の時制 「テ形」「タ形」条件節「なら」「たら」~ 日本語
なら / たらの比較
基本的に
名詞+なら
動詞+たら
ですが、例文をあげてもうちょっと見てみましょう。
雨→運動会が中止
運動会の例はみなさんもよくつかうし耳にするのでいい材料になります。
遠足でもいいです。
もういちど書いておきましょう。
例:
明日雨が降ったら、運動会は中止です。
いちばんふつうの言いかたは「雨が降ったら」です。
タラレバの相棒として「雨が降れば」がありますがつかいません。
×明日雨が降れば、運動会は中止です。
已然形
もともと「れば」は仮定形ではなく已然形。
「既に起こったこと」についてつかうので「仮定」にはつかいません。
現代では
「お金があったら」「お金があれば」と両方仮定の意味としてつかうこともありますが、
「春になれば桜が咲く」「ボタンを押せばドアが開く」のように「当然」「必然」の意味でつかうこともあります。
「雨が降れば水たまりができる」のは必然かもしれないけど。
「雨が降ること (自然現象) 」と「中止にする」という人間の考えや行動は必然的なつながりがないからおかしいんですね。
なら
じゃあ「なら」は?
「明日雨なら、運動会は中止です」
「名詞+なら」なので文法的には合ってます。
でもなんかしっくり来ませんね。
ここはやはり「降ったら」がいちばん自然で「もしも」という仮定のニュアンスが強くなります。
歌
歌の文句では日常会話とちがい音や語感を味わったり、単に音の数合わせのためにふつうはつけない音を足したり、引いたりすることがあります。
むかし、わらべの「もしも明日が晴れならば」という歌がありました。
文法的には正しいです。
でも日常会話でこれ、つかうでしょうか?
なんて言いますか?
「明日、晴れたら遊園地に行こう」ですね。
「明日、晴れなら (ば) 遊園地に行こう」とは言いません。
やはり「名詞+なら」より「動詞+たら」のほうが自然で仮定のニュアンスがあります。
ぜったいにつかわない例
運動会の例でぜったいつかわない例はこれです。
×「明日雨が降るなら、運動会は中止です」
これは時系列で説明することもありますが、自然現象の仮定を現在形でつかうことはないと教えたほうがいいでしょう。
ここは「降ったら」です。
「動詞+なら」はいいのか?
さて「なら」「たら」の基本的なちがいはわかったと思うけど、悩ましいのがこれです。
日本人ならだれでも知っている標語にこんなのがあります。
飲んだら乗るな。乗るなら飲むな
「飲んだら」のほうは「たら」とおなじで「た」が「だ」になるものは「たら」も「だら」になります。
問題は「乗るなら」のほうです。
これは標語として定着してしまっているけど、じゃあこんなのはどうでしょうか?
例:
「駅に行くなら早く行ったほうがいい」
「夜、テレビを見るなら音を小さくしてね」
何も問題なさそうですね。
でもこの2つの例文はこうも言えます。
例:
「駅に行くんだったら早く行ったほうがいい」
「夜、テレビを見るんだったら音を小さくしてね」
あなたはどちらをつかいますか?
おじさんは下の「んだったら」をつかいます。
この「ん」にヒントが隠されています。
準体助詞「の」→「ん」
下の例では今までなかった「ん」が現れました。
これはとても重要な助詞で、もしなかったらこうなります。
例:
×「駅に行くだったら早く行ったほうがいい」
×「夜、テレビを見るだったら音を小さくしてね」
「行くだ」「見るだ」のように動詞にちょくせつ断定の助動詞「だ」はつけられません。
そこで糊の役目をする日本語のスーパー助詞「の」の登場です。
この「の」はべつの言葉に置き換えると「ということ」という名詞になります。
駅に行くということ→駅に行くの
と、とても短い言葉でつなぐことができます。
そして動詞と「だ」をくっつけることができます。
それぞれ
「行くのだ」「見るのだ」と言えます。
の→ん
そして日常会話では「の」は「ん」に変わります。
「行くのだ」→「行くんだ」
「見るのだ」→「見るんだ」
さあ、そろそろ感づいてきましたか?
「なら」は「だ」の活用形
「なら」を「だ」の活用形と考えるなら、動詞にちょくせつ「なら」をつけられません。
動詞+なら×
「行くだ」「見るだ」「乗るだ」がダメなら、
「行くなら」「見るなら」「乗るなら」もダメですね。
動詞+の / ん+だ / なら
動詞と「だ」をつなぐには「の / ん」が必要でした。
だから、動詞と「なら」をつなぐにも「の / ん」が必要です。
上の例はそれぞれこうなります。
「行くのなら」「見るのなら」「乗るのなら」
「行くんなら」「見るんなら」「乗るんなら」
標語ではほんらい
「 (これから) 乗るのなら、飲むな」
なんだけどそれでは七五調にならないので「の」を取ってしまいました。
でも理由はそれだけじゃなさそうです。
なぜなら「行くなら」「見るなら」は当たりまえにつかわれているからです。
ナ行の前の「ん」は吸収されてしまう
ローマ字で書くとわかりやすいです。
「行くのなら」を例に取ってみましょう。
行くのなら iku no nara
行くんなら iku n nara
行くなら iku nara
「ん」とつぎのナ行の頭がおなじ「n」なのでくっついて消えてしまいました。
それで「行くなら」「見るなら」「乗るなら」が当たりまえになってしまいました。
ただほんの一部、おじさんのような敏感な人は「なんか気持ち悪い」と感じるのです。
いっぽう「んだ」「んだったら」のほうは「n→d」というべつの音なので消えずに残っています。
ただこれもおなじ歯茎音なので、あと100年くらいしたら消えることがあるかもしれません。
方言では
「俺ら東京さ行ぐだ」というように「の」が消えているつかいかたもあります。
他意はありません。
現在、共通語と言われているものはもともと「東京の山の手方言」をもとにした人造語ですから。
「なり」から借りたから
もう1つの理由としては上に書いたように、「なら」は「なり」の活用形の借用なので、「動詞の連体形にちょくせつ接続できる」という考えもできます。
「なら」「たら」「んだったら」のちがい ②
もうすこし例をあげて比較してみましょう。
なら (単なる条件。確定事項) / たら (仮定。覆せない現実。選べない未来。気持ち)
「なら」は単なる数学的な条件を表します。
そこに人の気持ちははいりません。
それからやはり仮定ではなく確定事項である条件を指すときにつかいます。
A→B 「Aなら (ば) Bである」というような機械的なつながりです。
鳥ならいいのに。
(まだ鳥に生まれる可能性があるかも😮)
鳥だったらよかったのに。
(もう人間に生まれたという現実は覆せない。また、残念な気持ちがある)
明日、雨だったら運動会は中止です。
(自分で選べない未来。自然現象だから神のみぞ知る。仮定の意味が強い。また雨が降ったら嫌だなという気持ちがある)
「雨なら~」が気持ち悪い理由はこれです。
今から出かける (ん) なら、傘を持っていったほうがいいよ。
(相手が出かけるかどうかはあまり重要ではない。また出かけることはわかっている。仮定ではなく機械的、事務的なアドバイス)
今から出かけるんだったら、傘を持っていったほうがいいよ。
(相手が出かけるかどうか確信はない。出かけないかもしれない。もしも出かけるんだったらという強い仮定。また「出かけないほうがいいよ」という否定的な気持ちもふくむ)
彼がそう言う (ん) なら、まちがいないだろう。
(確定事項。彼はそう言った。ただし第三者からの伝聞であり、自分は直接聞いたわけでもないし確認していない。そこにいくばくかの懐疑がある)
彼がそう言うんだったら、まちがいないだろう。
(上とほぼおなじだけど、こちらのほうが仮定のニュアンスが強いので、ほんとに彼がそう言ったのか懐疑の度合いが上より強い)
彼がそう言ったんなら、まちがいないだろう。
(上の例の「言うなら」は彼の考えとして過去も、現在も、この先未来も存在するが、「言ったんなら」は過去の出来事、動作として捉えている。彼が言ったということが胸に強く刻まれている。「彼がそんなことを言ったなんて信じられない」という意味合いもふくむ)
これらは厳密に分析すればこうなるけど、さすがに日本人もここまで考えて意識して使い分けてはいません。
でも日本語教師としては「なんとなく」ではなく自分は理解しておく必要があります。
日本語上級者 (日本人より日本語に詳しい超オタクレベル) の外国人には説明するけど、ふつうの上級者レベルではここまで攻めてこないし、説明してもわからないでしょう😅
「なら」「たら」「んだったら」のちがい ③(時系列として)
終わろうと思ったけどこれについても書いておかねば😅
これからの予定 ・意志・するつもり「なら」「んだったら」
まだその動作ははじまっていない
例:
出かける (ん) なら、傘を持っていったほうがいいよ。
出かけるんだったら、傘を持っていったほうがいいよ。
順番 B→A
語順と動作の順番は逆になります。
傘を持つ→出かける
「出かける」が現在形であることに注意。
「出かけたら」と過去形にすると意味が変わってしまいます。
また上の例文では「出かけたら」はぜったいつかいません。
これは「乗るなら飲むな」のパターンですね。
飲む→乗る
そのあと別のことをする「たら」
視点がすでに動作が終わった時点にある
これも現時点では動作ははじまっていないけど、視点はすでに終わった時点にあり、その動作が実現したという前提で話している。
例:
雨が降ったら、運動会は中止です。
駅に着いたら、電話して。
順番 A→B
順番は語順とおなじ。
雨が降る→中止
駅に着く→電話する
「降ったら」「着いたら」は過去形で、
時系列から「降る」のは「中止する」より前。
「着く」のは「電話する」より前です。
こちらは「飲んだら乗るな」のパターンです。
飲む→乗る
仮定の強さの順番
とてもややこしい話だったので1つ例を挙げて仮定の強さとニュアンスのちがいを見てみましょう。
あなたは相棒とともに、悪人の一味に囚えられているとします。
外でボヤ騒ぎがあって見張りがいなくなりました。
上のほうが仮定の意味が強く、行動する意志が弱いです。
下に向かって確実性と意志が強くなっていきます。
- 逃げる ん だったら 今だな / 今がいい。
「ん」は省略できない。
頭に「もし」がつくことが多く、仮定の意味合いが強い。
逃げるんだったら今がいいけど、まだ逃げるかどうか決めかねています。
逃げたいのはもちろんだけど、見つかってまた捕まるのも怖い。 - 逃げる (ん) なら 今だ / 今しかない / 今のうちだ。
「ん」はうしろの「な」の音にくっついて省略することが多い。
「だったら」より仮定の意味合いが弱くなり、より「確実」「当然」のニュアンスが強くなる。
「だ」は強い断定。
「しか」は自分の持ち分が限られている。選択の余地がないということ。
「うち」もタイムリミットがあるという意味。 - 今のうちに 逃げよう。
命令ではないが、自分の意志は「逃げる」で相棒にもそれを促し、同意を求めている。 - 逃げる ぞ!
ほぼ命令に近い。
動き出す直前。 - 逃げろ!
もう相棒の返事や行動を待つまでもなく自分は動きはじめている。
「なら」「だったら」の境目ははっきりとした線があるわけではなく、人によってもどちらをつかうかは好みによって分かれます。
基本的に「なら」は「ほぼ確実」
「だったら」は「仮定」。
わたしは日本語教師をしています
プロフィール・レッスン予約はこちら。
表示名はToshiです。