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「ただ見る」「好き嫌い」
はじめに
「自分を好きになる」とか
「自分のいいところを見つける」とか
「自分を受け入れる」とか
いう言葉が氾濫しています。
一見、よさそうな言葉に見えるけどほんとにそうでしょうか?
自分がほんとに好きで、一生好きでいられるなら問題ありません。
でも現実にはそうもいきません。
今の自分に満足している人はいないだろうし、奇跡的にいたとしても、自分も世の中もつねに変わります。
永遠におなじ状態ということはないのです。
今あなたが若くて、健康で、仕事にも、家族にも恵まれていたとすれば、それはそれは幸せでしょう。
こういう人は世界の1%いるかどうかもわかりません。
じっさいには何かしら問題や不満があり、こんな人はドラマの中にしか存在しません。
また「ありのまま」「あるがまま」の自分を受け入れるとか、好きになるというのもこれまた綺麗事です。
おじさんは真実を書きます。
ありもしない夢のようなことを言って、人の時間を無駄にさせたくないからです。
辛辣に、あるいは冷たく感じるかもしれないけど、これを理解すれば、さまざまな苦難にあえいでいる人もいくらか楽になるのではないでしょうか。
おじさんはもはやおじいさんの段階に突入して、体はあちこち支障があり、そうでなくても体力も気力も落ちて若いときのように仕事もできません。
そんな自分をどうしたら好きになれるのでしょうか?
いいところを見つける?
いやはや、問題点だらけです😅
これはまちがったアプローチなのではないか?
まちがったアプローチ
世界一にはなれなくても、世界で唯一。
ナンバーワンでなくてもオンリーワンであればいい?
かっこいいセリフですね。
どこかで聞いたような。
でも、あなたはオンリーワンでもなく、掃いて捨てるほどいる人々の1人にすぎません。
自分だけにしかできないこと?
ありませんよ。
自分だけが持ってるもの?
ありませんよ。
けっきょくこのアプローチは、あなたが特殊能力、人間国宝的なものを持っていなければ、あなたに価値がないという結論をもたらします。
こんなのおかしいですよね。
まちがってます。
考えかたもやりかたもまちがってます。
自分だけでなく他人や物でも
苦手な人や、苦手な物は山ほどあります。
たとえばあなたが納豆が嫌いだとして、無理して食べつづければ好きになるでしょうか?
否。
納豆が健康にいいとかいう話を聞いたところで味が変わるわけではありません。
あなたの好みが変わるわけではありません。
嫌いなのには理由があり、極端な例では食物アレルギーもあります。
おじさんは子どもの頃から発酵食品と肉の脂身が嫌いです。
それは味覚や食感の問題ではありません。
発酵とは体裁のいい言葉で、ほんとは「腐ってる」ということです。
人体に害がないというだけで。
ただ人によりけりで、人によっては体に害があります。
腐敗したものの匂いを検知して、味覚で感じて、それを取り入れないようにするのは生物に備わったプログラムです。
これがあるから、生物は腐ったものや毒物を取り入れないでいられるんです。
このセンサーがない生物はとっくに絶滅してるから。
脂身が嫌いなのもただの好き嫌いや我儘ではなく、消化が悪いので吐いたり、下痢したりするからです。
もちろん子どものときはそんなことははっきり自覚していません。
なんとなくなんだけど、嫌いになった理由はそういう嫌な経験をしてきたことを潜在意識の中で覚えているからですね。
好きになるには理由が要るか?
たとえば、わたしは頭がいいから自分が好き。
人にやさしいから自分が好き。
人に好かれるから自分が好き。
目立たないけど、気が利いて人の役に立つから自分が好き。
まあこういう長所があったとしたらそれはそれでいいでしょう。
でも、かならず短所・欠点や弱点もあります。
かならずある欠点
人のことを羨ましく思ってしまう。
人がうまく行くと、表面上は祝福したり褒めたりするけど、ほんとは面白くないと思う。
人が失敗すると北叟笑んでしまう。
じっさい自分は頭がよくない。
よく健康だけが取り柄という人がいるけど、病気だらけだ。
体力もなく、運動能力も劣る。
すぐ疲れる。
すぐ飽きる。
根気がない。
数え上げたらきりがありません。
それでもあなたは自分が好きですか?
長所をあげれば、かならず短所もあがります。
もし、あなたが「人にやさしいから」という理由で自分が好きなら、つい心無いことを言ってしまったときに、相手よりあなた自身がそのことで自分をひどく嫌いになることでしょう。
嫌いなものは嫌い。好きになろうとしても苦しむだけ
他人や物はもちろん、自分自身の体や心や能力、性格、生い立ちなども、嫌いなものは嫌い。
無理に好きになろうとしても好きになれるわけではない。
好きになったふりは身を滅ぼす
ありがちなのはほんとに好きになったのではなく、好きになったふりをすることです。
ふりをしてるうちはまだ自覚がある。
始末が悪いのは、自覚がないことです。
本心を抑圧してもそれは克服したのでも、消えたのでもなく、隠しただけです。
臭いものに蓋をしただけです。
隠した不快な気持ち、憎しみ、怒りといった感情は、見ないふりをしてるだけで厳然として存在しているので、あなたが気づかないうちにあなたを燻りつづけます。
あなたのお尻に火が点いているのに、見ないふりをしてるけど、現実にはあなたは焼け死んでしまいます。
あなたは地獄の業火ではなく、気づかないふりをしているお尻の火で焼かれてしまいます。
冗談ではありません。
あなたがやってることは「好きになる」ことではなく「嫌いなことを隠している」だけです。
では、正しいアプローチはどんなものでしょうか?
好きになるのではなく、ただ事実を見る
これこそが本当の「ありのまま」「あるがまま」の姿です。
そのままを見る。
そして、そのとき感じた自分の気持ちを褒めもしないし、貶しもしない。
ただ事実を見る。
納豆が臭い。
それ以上の評価は下さない。
臭いから食べない。
それでいい。
健康にいいのに食べない自分はダメだなどという評価をしない。
そもそも納豆がほんとに健康にいいのかどうかなどわからない。
誰が言った?
どうせテレビやインターネットで言ってたり、書いてあったりしただけのことでしょ。
知り合いが言った?
どうせその人もテレビやインターネットで仕入れた、刷り込まれた情報を鵜呑みにして垂れ流してるだけです。
その人がじっさいに実験して検証したんですか?
いっさいの評価をしない
ブッダの言葉
見えたものは見えただけ。
聞こえたものは聞こえただけ。
もしだれかに「バカ」って言われて腹が立つなら、それはあなた自身が自分を「バカ」だと感じたからです。
「バカ」って言われてもそれがただの音なら腹は立ちません。
「バカ」という音が聞こえただけです。
もし外国語で罵られても腹が立たない。
それは意味がわからないからです。
意味のある言語ではなく、ただの音だからです😄
何か不快なものを見ても、見ただけ。
そこでそれについて考えたり、反応したりするから、自分の心にさざなみが、いや大波が立ち、イライラしたり怒りが生じる。
だれかが何かを言ったのを聞いても、聞こえただけ。
それに反応するから、心が揺さぶられ、肉体的にも、アドレナリンが出て、心拍が上がったり、血管が収縮したりして物理的に害をもたらす。
好き嫌いという評価をしない
好きになるのではない。
好きでも嫌いでもない。
ただその事実があるだけ。
好きだけがあれば心地よいと思うかもしれないけど、好きがあればかならず嫌いがある。
好き嫌いという物差しで測っている限りかならず嫌いに振り分けられるものがある。
そして嫌いの方がかならず多い。
だから、物事も自分自身もかならず「好き-嫌い」のどちらかに振り分けることをやめる。
好きになるのではなく「いっさいの評価をしない」
あなたがクズ親に育てられ、虐待され、心を捻じ曲げられ、友人にも家族にも恵まれず、仕事もなく、お金がなくても、何も評価しない。
あなたは不幸かもしれない。
いや、不幸だ。
苦しいと感じる。
それも事実。
幸せなフリはしない。
その中で無理やり、ありもしない「いいこと」を捏造して、自分の置かれた境遇や運や、自分自身の能力や性格などに「いいところ」を見つけて好きになろうとしても、それは嘘でしかない。
真実を捻じ曲げ、怒りや憎しみを抑圧すればかえってそれはあなたを傷つけ苦しめる。
あなたが「何かがあるからあなたやそれが好き」と感じるなら、それがなくなったとたんあなたは「あなたやそれが嫌い」になる。
好きでも嫌いでもない。
ただ事実を見る。
しょせん比較の問題
形容詞や状態を表す言葉はすべて比較の問題でしかない。
好き-嫌い
大きい-小さい
高い-低い
多い-少ない
金持ち-貧乏
速い-遅い
ある-ない
この宇宙に絶対静止系は存在しない。
絶対座標は存在しない。
すべて相対的な動きや質量でしかない。
背が高い、低いって何?
身長160cmのあなたは背が低いとコンプレックスに思っているかもしれない。
でも、あなたが平均身長130cmの国に行けばあなたは大男だ。
あなたが羨ましいと日々思っている180cmの人も、2mの人たちの中にはいればチビだ。
絶対的に高い、低いというものは存在せず、あくまで比較の問題にすぎない。
金持ちって何?
あなたは自分の生活を貧しいと感じているかもしれない。
ビル・ゲイツと比べれば貧しいかもしれない。
でも、アフリカの難民に比べればはるかに裕福だ。
でも、あなたはアフリカの難民に比べれば裕福だとしてもそれで幸せだと感じるだろうか?
否。
比較するかぎり、上を見れば上はいくらでもいて、下を見れば下はいくらでもいる。
でも、上を見ても下を見ても、あなたの現状が何1つ変わるわけではないのだよ。
あなたが多少、上に行ったり下に行ったりしても、かならずあなたより上はいるし、あなたより下もいる。
こうして比較して、形容詞でラベリングするかぎり、上を見て劣等感を覚え、下を見てかりそめの優越感に浸る。
でも、けっきょく比較してるかぎりは、かならず上を見て悔しいと思うのだ。
今のあなたを好きにならなくていい。
受け入れなくていい。
ただ事実を見るだけ。
ただそれだけ。
自分や自分の境遇を好きになろうとするのはやめなさい。
受け入れなくていい。
ただ見るだけ。