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「和食」「食器」「並べかた」
お決まり

これはじっさいに出された配置です。
副菜 (漬物) や箸の位置は置いといて、問題は主菜 (メインディッシュ) 、ご飯、味噌汁の位置です。
主菜が奥。
手前の左にご飯。
右に味噌汁。
これがお決まりです。
でもどう考えても、いや考えなくてもこれはおかしいです。
茶碗、お椀は左手で持つ
これも作法です。
ご飯は手前の左で満点です。
でも味噌汁のはいったお椀は右ですか?
すごく取りにくいですよね。
取りにくいだけでなく、茶碗の上を左手とお椀が行き来することになります。
引っかけてこぼす可能性が高くなります。
和服を来ていたら袖が邪魔なことはまちがいありません。
主菜が奥なんてありえない
まして魚です。
左手で押さえて右手で解体、もといほぐさなけばなりません。
その作業を手前の茶碗とお椀の上をまたいでやらなければなりません。
やりにくいのは言うまでもなく、そのときに袖がご飯や茶碗にはいったり、引っかけてこぼしたりします。
おじさん流

おじさんはこのように並べ替えます。
あっ、もちろん箸は手前に置きます。
解体作業をともなう主菜 (魚) はいちばん自分に近いゴールデンポイントに置きます。
そして、左で持つ茶碗とお椀は左に。
出動回数の多いご飯を手前にします。
マナー・作法の本来の意味
manner
英語のmannerの「man-」は「手」という意味です。
manual 手引き。手動 (の) 。いわゆるマニュアル。
manufacture manu- (手) +fact (作る) →手工業
manipulation mani- (手) +-pul (満たす) →手を使って何かをする→上手な扱い。巧みな操作
>manipulateはmanipulationからの逆成。
mannerは「方法」「やりかた」という意味です。
それから行儀・作法という意味になりました。
行儀・作法
行儀
これも「行儀がいい / 悪い」というように本来「行儀」には善し悪しの意味はありません。
「儀」は「様子」「振る舞い」という意味です。
「行」は「行い」「行動」
つまり「行儀」とは人の「行動」「立ち居振る舞い」を表します。
作法
「動作する方法」です。
合理的なやりかた
だからマナーも行儀作法も「合理的なやりかた」というのが本来の意味です。
このやりかたでやれば合理的で、やりやすく、粗相をしないということです。
わざわざ不合理で、やりにくく、粗相をしやすいのはマナーでも行儀作法でもありません。
形式
なぜか定着している並べかたは、マナーでも行儀作法でもなくただ見てくれだけの形式です。
現代でいえばインスタ映えする置きかたです。
ショーウィンドウに置いてあったらきれいに見えるだけの配置です。
人が食べることを考えてはいません。
その配置で客に配膳することも不合理・不条理です。
コーヒーカップ
コーヒーカップもわざわざ左に取っ手を置くのは不合理・理不尽です。
客をもてなす気持ちがあるなら、右利きがほとんどの世の中では右に取っ手を置くのが自然です。
コーヒーカップは皿に乗せて持ってきて、ウェイターは皿を持って置くので、ウェイターにとって取っ手がどっちにあるかは関係ないのです。

それをわざわざ客に回させるのは理不尽としか言いようがありません。
男は向こう側に、女は手前になんてだれが言い出したのかわからないトンデモ作法です
茶道かっ!?
日本でこの変な風習が定着したのは茶道で茶碗を回すことから来ているのではないでしょうか。
茶道で茶碗を回すのは茶碗の絵柄を相手に向けるためで、お茶を味わうこともあるけど茶碗の芸術性を愛でることもふくまれます。
亭主 (ホスト) はきれいな絵柄を客に向け、客はそちらに口をつけないように回すのです。
ただ回すのではなく、飲んだあとで茶碗を芸術品として眺めそれを褒め称えたりします。
もちろん茶道では男女関係なく右手で手前に2回、回します。
飲み終わったら右の親指と人差指で口をつけたところを拭いてから右手で向こうに2回、回します。
それが自然で合理的だからです。
これが作法というものです。
バスケットボールのように回すのが作法だったら不合理で、みんなこぼしますよね
さまざまな作法
ドアの取っ手
ドアの取っ手は腰から肘の高さぐらいにあります。
これが床に近かったり、天井の方だったら開けにくくてしょうがないですよね。
電気のスイッチ
人の目線から肩の高さぐらいにあります。
はじめてその家に来た人でもスイッチがどこにあるかすぐわかるからです。
その家の人でも真っ暗闇でスイッチを探すとき、この高さだと手探りで見つかります。
これも足元や天井なんてありえないですね。
コンセント
コードが邪魔になるので基本は床からすこし上。
洗面台のコンセントは目線の高さにあります。
またこれは水がかかる恐れがあるので高いところにしてあるということもあります。
これらはみんな意味があり、人が使いやすいように考えて配置してあります。
あるべきところにないと「なんでここやねん!」となります。
トイレや風呂のドアは内側へ
これは便器があるし風呂は狭いので外側へ開けたいところですが、地震などで外のものが倒れて出られなくなることを防ぐために内側に開くようにしています。
外開きのところでは外に物を置かないようにしましょうね。
水栓は下で閉まる
電気のブレーカーはむかしから下でOFFでした。
重力ですべてのものは下に落ちるのでこのほうが安全です。
下でONだと物が当たったり振動で電気が流れてしまい危険です。
ところがなぜか水栓は下で水が出るようになっていました。
考えない人が作ったんですね。
じっさいおじさんも古い家で、帰ってきたら水が出っぱなしになっていたことがありました。
自分では閉めたつもり、いや閉めたんだけど、何かの拍子に手が当たって水が出てしまうことがあります。
これは震災を期に下で閉まるように変わったそうです。
水漏れだけでなく、水が流れつづけることで漏電を起こして火事になったりするからです。
自分で考えよう
多くの作法は
「それがいちばん合理的だから」
「それがいちばんやりやすいから」
「それがいちばん効率がいいから」
という理論と経験則から蓄積されてきたものです。
でも中には理由も根拠もなく、お偉いさんがそうおっしゃったからと盲目的に受け継がれてきたものもあります。
ちょっと自分で考えてみる習慣をつけてみましょう。
これはなぜこのようにするのか?
こうする理由は何か?
本やネットに書いてあることではなく。
先生や親が言ったことでなく。
鵜呑みにするのは愚かです。
また、支配者や搾取者にいいように利用されていることも多々あります。
たとえば労働は美徳なんてのもね
それは為政者がみかじめ料をがっぽり取るためにほかなりません。
民衆がせっせと働いてみかじめ料を国に納めてくれないと役人たちが寝て暮らせませんから。
とくに宗教的な行事では合理性が目的ではなく、いかに
「もっともらしく」
「偉そうで」
「神秘的で」
「素人にはできそうになく、むずかしそうな」
やりかたがしつらえてあることが多いです。
神職がしつこいくらい何度もお辞儀をするのもそうです。
神様への敬意?
いえいえ、神様の格をより上げ、烏合の衆をひれ伏させるのが目的です。
それにはできるだけめんどくさい儀式のほうが有効なのです。
信仰について言えばそれは各々の心の中にあるもので、神社仏閣に参拝する必要はありません。
お布施をいくら払ったかは関係ありません。
そもそもあなたが払った金額で神仏からご加護をいただけるのであれば、それは金権主義以外のなにものでもありません。
いつでもどこでもあなたが信じればそれはあなたの中にあります。
特別な場所にあるのではありません。
ただ家にいると、洗濯をしたり、炊事をしたり、掃除をしたりしなければならないので、そういう雑用から離れるために「何もない」空間に身を置くというのは1つの手段です。
しかし、あくまで1つの手段であって必須ではありません。

