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「役に立つ」「自分の価値」「他人の評価」
人の役に立つのはいいこと?
幼いころより、親や先生から「人の役に立つ人になりなさい」と教育されます。
社会通念でも人の役に立つことはいいことだとされています。
悪いことではない。でも
たしかに悪いことではありません。
いや、いいことに違いありません。
でも、ここに大きな問題があります。
人の役に立たない人は生きてる価値がないの?
まず生まれたばかりの赤ん坊、そして子どもは自分で自分のことができないので、「人の世話になって」生きています。
そして、いつしか年を取れば、また人の世話にならなければならなくなります。
成人していちばん元気なはずのときでも、病気やケガなどで人の世話にならないと生きていけない人がいます。
働きたくても働けない人はいくらでもいます。
この人たちは「価値がない」のでしょうか?
「生きる資格がない」のでしょうか?
健康な人でも
年寄り、子ども。
そして、難病や体のハンデを持っているといった特別な人ばかりではありません。
健康で、ふつうに仕事をして、ふつうに生活している人たちだって自分が生きていくのに精一杯でなかなか他人のことまでできません。
というより自分のことさえ儘ならないことだらけです。
他人の評価でしか自分の価値を決められない
また「人のために」何かをしても、それがほんとに相手のためになったのかどうかわからないことのほうが多いです。
相手が「ありがとう」と言ってくれたり、何らかの形で「感謝」の意を表さないとあなたにはわかりません。
そういう意思表示がなければ、あなたは「役に立たなかった」と落ち込むことになります。
はたまた「ありがとう」と言ってくれても、社交辞令かもしれません。
自分の価値を他人に決めさせるのですか?
人があなたに対して「役に立つ」と言えばあなたの価値は上がり、「役に立たないね」と言われたり、あるいは何も言われなければあなたの価値は下がるのであれば、あなたはつねに自分の価値を「他人に決めさせている」のです。
人の評価であなたの価値は変わらない
これはもう「人の好み」に尽きます。
同じことをしてもそれをよく思う人と、そうでない人がいます。
子どもが転んだので起こしてあげたら、その親が「甘やかさないでください! 」といって怒るかもしれません。
でも、あなたが「子どもを助けた」という行為に変わりはありません。
ダイヤモンドは輝きを変えない
ダイヤモンドに何億円という値段がつこうと、石ころのように誰にも見向きもされずに地面に転がっていようと、ダイヤモンドの輝きが変わるわけではありません。
化学的な組成が変わるわけでもありません。
一匹の犬が尻尾を振ってます。
ある人は「かわいい」と思い、ある人は「こわい」と思います。
同じ犬です。
犬は何も変わっていません。
カレーが好きな人と嫌いな人がいても、カレーの成分や味が変わるわけではありません。
そもそも意味とか価値とか無きゃいけないのか?
自分が生きてる意味とか、生きてる価値とか、存在意義とかないとダメなんですか?
言いかたをかえると、それらがないと生きていてはいけないんですか?
意味や価値を求めるのは人間だけ
こんなこと考えるのは人間だけでしょう。
動物は生きる意味とか、目的とか、価値とか考えない
あなたの身のまわりにいる鳥や野良猫は、自分が生きる意味とか、自分の価値とか考えているでしょうか?
人の役に立つとか考えない
人の役に立たないから「生きてちゃいけないんだ」なんて思わないでしょう。
人の役に立つのが悪いと言ってるのではない
人の役に立つことは悪いことではありません。
それを人生の目的や意味、あるいは自分の価値にしてはいけません
人に何かをするときに気をつけること
- 見返りを求めない。
- 人の評価を求めない。
意味さがしではなく、目標をつくる!
人生に意味や意義をもとめて探し回るのはやめましょう。
そんなものはないのだから。
自分探しなどやめましょう。
あなたは他でもない。
今ここにしかいません。
そもそも意味がないと生きていけないという状態はおかしいのです。
意味とか、意義というものは「人から (天から) 与えられたもの」「もともと存在するもの」というように「受動的」です。
人から与えられるのを待っているだけです。
ただ待っていて「ないない」と言っているのです。
そんなものはないのだからいつまで待ってもどこからもやって来ません。
また、探しに行ってもありません。
ないのだから。
そうではなく、自分で「目標」を作るのです。
目標をつくるときは「人のため」とか「役に立つか? 」という考えは捨ててください。
「自分のため」でもなく、自分は何をしたら「楽しいか? 」を考えましょう。
自分が見えない理由
でも自分は何がしたいのかわからない。
どこかに行ったら何か見つかるかも?
いいえ、どこに行って何をしても見つかりません。
どこに行ってもあなたの心、考え方はいつもくっついてくるからです。
静かに心の声に耳を傾ける。
やっぱり聞こえません。
なぜでしょうか?
それは何かをしようと思うとき、
「これは人のためになるだろうか? 」
「これは人の役に立つだろうか? 」
「これをしたら人が褒めてくれるだろうか? 」
「これをしたら人が自分を価値がある人間として認めてくれるだろうか? 」
こんな考えを持っているからです。
それがあなたの耳をふさぎ、心の目を閉じさせています。
ヘッドホンを外し、サングラスを外す
こうなったらいいな。
こんな人間になりたいな。
そのためには何をすればいいのか?
それだけを考えて、実行していくのです。
だれかのマネをする
目を閉じて、耳もふさいでしまってわからないなら、あなたの身のまわりの人を見て
「この人いいな!この人みたいになりたいな」
という人のマネをしましょう。
傍若無人に振る舞う人のマネはよしましょう。
まあ、この記事を読んでるあなたはそんなことしたいと思わないでしょうけど。
「あの人の考えややっていることはイヤだ!」と感じるのも自分の心を知るいい材料です。
人の振り見て我が振り直せというやつですね。
そうではなく、たとえば誰かが転んだのを見たとき、 あなたは手を差しのべ声をかけたいと思うけど、人目を気にしてやめてしまいます。
そのときに手を差しのべ声をかける人を見たとします。
そうしたら「わたしはダメだ」と思わずに、こんどそういうことがあったら自分もそうしてみようと考えましょう。
そして、実行しましょう。
現実の人でなくて、マンガやアニメ、ドラマの登場人物でもいいです。
もちろんフィクションはフィクションなので、あなたが人類を救うために自分の命を犠牲にして小惑星に爆薬を仕掛けに行くなんて大それたことを考えなくてもいいです。
スーパーマンではないし、不死身の体ではないのでそんな突飛なことはしなくてもいいです。
でも、誰かを見て「いいな」と思ったら、そこにあなたの価値観ややりたいこと、望むことがあるにちがいありません。
それをヒントにマネをしてすこしでもそちらに近づいていけば、自分の本心ややりたいことが見えてくるのではないでしょうか。
無財の七施
人生の目的や自己評価にしてはいけないけど、できることがあるなら人に何かしてあげることはいいことです。
それは相手が困っていれば救いになるし、何よりあなた自身がやさしい気持ちになれるからです。
「でも、自分にできることなんてない」というあなた。
「無財の七施 (むざいのしちせ、ななせ) 」という言葉があります。
あなたが金持ちでなくても、力がなくても、特殊な能力がなくても、極端な場合あなたが病院のベッドの上にいてもできることがあるんです。
その中で、誰でも、いつでも、どこでもできるのがこの2つ。
和顔施 (わがんせ)
和やかな顔を人に向けること。
言辞施 (ごんじせ)
人に声をかけること。
ちょっと寂しかったり、どうにもならない問題を抱えていたりしても、人に笑顔で声をかけられたら問題は解決しなくても少し心が楽になります。
全人類でなく、あなたの隣りにいる人を
世界から戦争をなくそうとか、飢餓をなくそうとか、病気をなくそうとか、そんな大袈裟なことでなくていいんです。
あなたの家族、友人、会社の人、通りすがりの人。
そういった身のまわりの人に、それから野良猫や草花にも、ちょっとだけ笑顔と声をかけてあげてください。
それでいちばん心が軽くなるのは「あなた自身」だから。