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「苦」「快」「不快」「猿沢の池」「知らぬが仏」
「手を打てば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中 茶を持つ 猿沢の池 (さるさわのいけ)」
「手を打つ」「そしてパン! という音が出る」という客観的事実はただ一つで変わらないのに、「受け取り方」でさまざまに変わるということ。
鳥は「鉄砲で撃たれた」と思って、びっくりして飛び立つ。
鯉は「餌をくれる」と思って、寄ってくる。
女中は「お茶の催促」だと思って、茶を持ってくる。
「パン! 」という音は
鳥の心に入ってはじめて、「苦」になる。
鯉の心に入ってはじめて、「快」になる。
女中の心に入って、単なる「合図」になる。
「手を打って、音が出る」こと自体はもともと、「苦」でもなく「快」でもない。
単なる「事実」「現象」にすぎない。
その単なる情報を受け取った人 (または動物) が、自分の好みに照らし合わせて「苦」と判断したり、「快」と判断したりする。
こんな例はどうだろう?
梅干しは「快」か「不快 (苦) 」か?
梅干しは「梅の実を塩漬けにしただけ」というのがただの事実。
人が口にして味覚で感じて初めて「しょっぱい」とか「酸っぱい」とか認識する。
さらに、この「しょっぱい」「酸っぱい」が好きな人には「快」になり、嫌いな人には「苦」になる。
梅干しそのものは本来、「快」でも「不快 (苦) 」でもない。
同じものなのに「快」と「苦」になるもの
雪。スキーやスノーボードする人、雪だるまを作るこどもには「快」。雪かきしなきゃならない人には「苦」
寒いときになんで寒いところに行かなきゃいけないの? なんていう人もいます(^^)
山登り。好きな人には「快」。嫌いな人には「苦」
山登りなんて罰ゲームだという人もいます(^^)
給食。好き嫌いがない人には「快」。好き嫌いが多い人には「苦」
運動会。かけっこが速い人には「快」。遅い人には「苦」
これも「足が速い」とほめられ、「足が遅い」ともっと頑張れと言われるからで、そういう評価が自他ともにいっさいなければ生まれない感情ですね。
そもそも、走らせて「足が速い人、遅い人」という枠に入れることがまちがいですね。
知らぬが仏
誰かが手を打って「パン! 」という音がしても、聞こえなければ「快」も「苦」も何も生まれません。
聞こえたらはじめて、心臓の鼓動が速くなったり、何か行動を起こしたりするんですね。
梅干しがすぐそばにあっても、食べなければ、見えなければ、あなたの心には何も生まれません。体にも何も起こりません。
見えたらはじめて、つばが湧いてくるんですね。
見えたものは見えただけのこと。聞こえたことは聞こえただけのこと。
五感 (視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚) は食べものをさがして手に入れたり、危険なものから逃げて身を守るために発達したのですが、これが「苦」を生んでいます。
たとえば人に「バカ」と言われても、自分で「バカ」だと思ってなければ腹も立たないですよね。
腹が立つのは自分でも「バカ」だと思うからです。
でも、これも「バカ」という音の意味を知ってて、それに反応するから腹が立つので、英語で”Ass!”と言われても腹が立たないですよね。
それは意味のある言葉ではなく単なる「アス」という音でしかないからです。
感覚器官でとどめておく。脳や心に響かせない。
もう一度、人の心に「快」「苦」が生まれる過程をおさらいしておきましょう。
ただの物体、事実 (梅干しや、音、雪など)
↓
感覚器官 (五感。視覚。聴覚。嗅覚。味覚。触覚)
↓
脳が「快」「不快 (苦) 」に仕分け、心に「感情」が生まれる。
目をつぶって、耳をふさいで生活するわけにはいかないので、感覚器官が受け取ったところで留めて、脳に伝えない。
脳に行っても、「快」「不快」の判断をさせないこと。
判断して感情が生まれてしまったら、そのことに「気づく」こと。
感情のままに翻弄されないこと。
「 気づく」だけで「苦」は和らぎます。
外からの刺戟にやたらに反応しないように。
まったく反応しないと死んでしまうから、なるべく反応しないように(^^)
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