目次をご覧になりたい方はクリックしてください→
「瞑想」「禅」「集中」「悟り」「目覚める」「気づく」「今ここ」「マインド・フルネス」
瞑想 (めいそう)
「瞑想」とか「禅 」、「座禅」とかいうと、とてもむずかしいことのように思ってしまいます。
しかし、最近では海外でも「マインド・フルネス」と言って、行われるようになっています。
一言でいうと
「集中」
ということなんです。
「集中」といっても、針の穴に糸を通すとか、トランプタワーを立てるとか、そういう「緊張した (張りつめた) 」集中ではなく、「リラックスした」集中です。
「今」「ここ」に「集中」する
人はいつも何か考えています。
でも、考えてることってほとんどが「今、目の前にないこと」なんです。
時間的にも、空間的にも、「今、ここ」から遠く離れた物事です。
「過去」のことを悔やみ「ああすればよかった」「こうしてればこうなってたはずなのに」と今さら考えてもどうにもならないこと。
「未来」を案じて、「ああなったらどうしよう」「こうなったらどうしよう」「地震がきたらどうしよう」「ミサイルが降ってきたらどうしよう」「あれをしなくちゃ」「これをしなくちゃ」と、今考えてもしかたないこと、自分の力ではどうにもならないこと。
まどろんでいる
仏教では、こういう状態を「まどろんでいる」といいます。
「いや、わたしは起きていて、いろいろ考えている」というかもしれません。
でも、それはあなたが考えているのではありません。
「考えていると思っていること」はじつは勝手にあなたの頭にやってくるのです。
あなたが今、見たこと、聞いたこと、嗅いだ匂い、食べたものの味、触ったものの感触。
あなたは体に備えつけられた五感という「センサー」に「自動的に」反応して、体に備えつけられた「プログラム」にしたがって「自動的に」「動かされている」にすぎません。
いわば「人工知能」を備えつけられた「自動ロボット」なんです。
気づくこと
まず、自分が「自動的に」動かされていることに「気づく」ことが大事です。
たとえば、あなたが散歩してると向こうから🐶を連れて散歩している人が近づいてきます。
あなたが「見た」ことは、ただ「🐶と人が歩いてくる」という事実だけなのに、あなたは「過去」に、「🐶に噛まれた」ことを思い出しました。…いや、あなたが思い出したのではなく、「連想ゲーム」で、「記憶」のほうがあなたの意志にかかわらず勝手にやってきたのです。
あなたは「過去」の「痛み」や「恐怖感」を思い出して…いや、思い出させられて、今は、噛まれてもいない、痛くもないのに、「痛み」や「恐怖」を「感じている」ことでしょう。
この反応は、過去の経験から「🐶はあぶない」「逃げろ」という「生きるための手段、道具」として自然なものなのですが、さらには「毛皮を見ただけで怖い」とか「ふさふさしたものを触っただけで怖い」とか、「連想ゲーム」が極端な、「妄想」「不安」に発展していきます。
大事なことは「気づく」こと
この「無意識」で「自動的」な自分の反応に「気づく」ことが大切です。
わたしは以前、🐶に噛まれて痛い思いをしたので、そのことを思い出して「恐怖」を感じている、ということに「気づく」ことが大切です。
これで「無意識」に「自動的」に反応して、行動することはさけられます。
気づいたなら「無意識」に「無条件」にさけるのではなく、🐶に近づいてみようかなという「選択」もできるわけです。
もちろん近づくのをやめることもできます。
ブッダ=目覚めた人。菩提 (ぼだい) =目覚めること
自分で気づいて、自分の意志で「選ぶ」ことができたなら、「まどろみ」から目覚めたといえるのです。
瞑想をやってみよう!
まず、いわゆる座禅です。
座ってやるから、座禅というだけで、じつは椅子に座ってもいいし、歩きながらする瞑想、体を動かしながらする瞑想もあります。
なるべく何も置いてない場所で、静かなところがいいです。
なかなか自分の家だとむずかしいけど、お寺に行かなきゃできないことはないので、物を置かない場所を作りましょう。
人は五感というセンサーにことごとく反応してしまうので、生活の匂いがするものが置いてあると、すぐ「連想ゲーム」がはじまり、「あれを片づけなくちゃ」「あれを直さなきゃ」「掃除しなくちゃ」と「迷走 (めいそう) 」がはじまってしまいます(^^)
センサー (六感) をシャットアウト
瞑想で使われる小道具は、じつは「六感」をふさいで、「思考」や「心」が「今ここ」から離れて「迷走」するのを防ぐ役割があります。
はじめに。
お寺に行って、座禅をすると、結跏趺坐とか、法界定印とかありますが、足腰が悪い人はむりにあぐらをかく必要はないし、印を結ぶのも腕や肩が痛くなったりしてやめてしまうのは本末転倒なので、手は膝の上に置いといてもいいし、椅子に座ってやってもかまいません。
平らなところであぐらをかくと猫背になりがちなので座布団を折り曲げてお尻の下に敷いてもいいです。
- 視覚 (目)
- 聴覚 (耳)
- 嗅覚 (鼻)
- 味覚 (舌)
- 触覚 (体)
- 思考 (意)
① 「視覚」見えるもの。
余計なものを部屋に置かない。明るすぎず、暗すぎない部屋。ランプやろうそくなどの明かりを灯す。
目をつぶればいいじゃないかと思うかもしれませんが、目をつぶるとかえって「今ここ」から離れて、「過去」を思い出しては悔やみ、「未来」を想像しては不安にさいなまれてしまうんです。目を開ければ、目の前に「明かり」が見えてそれに「集中」することができます。
「半眼 (はんがん) 」
瞑想の「暝」は「目をつぶる」という意味なんだけど、目は半開きにしましょう。
つぶってもいいけど、何か「今ここ」でないものが頭に浮かんできたと気づいたら、目を開けて目の前の明かりを見ましょう。
ほかに集中する小道具として「ア字」を見る「阿字観 (あじかん) 」というものがあります。
これは梵字で「ア」をあらわします。
大日如来をあらわす種字 (しゅじ。しるしのこと) ですが、ほんらいは「ア」という音を表しているだけのアルファベットの「a」と同じです。
この文字を見る意味はあまりなく、むしろ見たことで「連想ゲーム」がはじまらない、意味のない図形がいいんです。
② 「聴覚」聞こえる音
これは説明するまでもないけど、音楽やテレビの音、人の話し声が聞こえるようなところで「集中」するのはむりですね。
静かなところ。
家族、とくに子どもがいると無理かもしれません。
誰もいない山の中などに行きましょう。
わたしはたまたま家にあった「般若心経」をウォークマンで聞いています。
日本語と、チベット語と、サンスクリット語、最後にもう一度日本語で20分くらいなのでちょうどいいタイマーにもなります。
また、なるべく意味のわからないお経のようなものがいいんです。
意味のわかる言葉だと、そこから「連想ゲーム」がはじまって「どこか遠い、ここでない時間と場所」に行って、さ迷ってしまうからです。
まったく何も音がないところでは、どれくらい時間がたったかわからないので時計が気になってしまいます。
気がついたら3時間もたっていたということはないでしょうけど、時間が気になってチラチラ時計を見るのはよくないのでタイマーを使いましょう。
といってもけたたましい目覚まし時計のベルのようなものではなく、光や音でやさしく時間がたったことがわかり、それを止めるのにすぐ手を伸ばさなくてもいいものがいいですね。
③ 「嗅覚」匂い
お寺ではよく「お香」を焚いていますね。
お香の匂いでリラックスする意味もあるけど、他の匂いをシャットアウトする目的があります。
カレーの匂いなんかしてきたら「集中」どころではないですね(^^)
④ 「味覚」味
ごはんやお菓子を食べながら瞑想する人はいないと思いますが、もちろんアメやチョコレートなんか口に入れてはダメですよ。
だけど、クローブ (丁字) というスパイスを噛んで瞑想する人はいるそうです。
薬くさくて、とても苦いので、それに意識を集中する意味があるのかもしれませんが、刺戟が強すぎるのであまりおすすめしません。
⑤ 「触覚」
暑すぎず、寒すぎないところがいいですね。
汗だくになっても、凍えるような板の間でも「集中」できません。
寒い部屋で、板の間に座ったりするのは、「苦行」になってしまいます。
⑥ 「思考」
超能力っぽい第六感とはちがいます(^^)
これは直接的な体のセンサーではありません。
だけどじつはこれが一番やっかいなものなんです。
人は起きてるかぎりいつも何かを「考えて」います。
よく瞑想では「雑念を捨てて」「何も考えない」などと言われますが、じっさいにはムリです(^^)
一つのことに集中するほうはまだできるけど、何も考えないというのは不可能です。
その中でいちばん多いのが、「過去の後悔」と「未来の不安」です。
つぎに多いのが、身のまわりのこと、仕事のことなどで「やらねばならぬリスト」です。
これを防ぐために小道具を使い、今ここに「集中」して、さ迷いはじめてもまたここに戻ってくるようにするのです。
まず口から息をぜんぶ吐く
人は力をぬいた状態では、肺の中に空気が残っています。
息を吐ききると、イヤでも息を吸いたくなるので新鮮な空気がたっぷり入ってきます。
鼻から息を吸って、口から吐ききる。これをゆっくり何回かやりましょう。
ムリに息を止める必要はありません。
何回か深呼吸をくりかえしたら、呼吸のことは忘れて自然な鼻呼吸に任せます。
「阿息観 (あそくかん) 」「数息観 (すそくかん) 」といって、呼吸に意識を集中する「瞑想」もあるけどここでは書きません。
よく雑念を捨てて、何も考えるなといわれるけど
ムリです!
かならず「雑念」は湧いてきます。
それは100%「今ここ」でなく、「過去」に起きたイヤなできごとだったり、「未来」の不安や「to do list (これから、やらなきゃいけないリスト) 」についてだったりします。
大事なことは、今、自分が過去や未来に行きかけたことに気づいて、「今ここ」にもどってくることです。
雑念が湧いたら湧いたでいいです。
それに無意識にあやつられて、過去や未来に連れて行かれないようにすることです。
気づいて、「今ここ」にもどってくる。
瞑想とは、「何も考えない」ことではなく、過去や未来に連れ去られそうになっても「気がついて」「今ここに戻ってくる」訓練だと思ってください。
これができれば、ふだん日常生活で瞑想していなくても、「怒りで我を忘れて」とか「恐怖でパニックに陥る」とかいうことが減ります。
「瞑想」が「迷走」にならないように。
「瞑想」が「妄想」にならないように。
リラックスできるイメージを浮かべる
どうしてもあちこちに気が行ってしまうようなら、自分がリラックスできるイメージや場所、状況などに的を絞ります。
たとえば高い山の上で遠くの山を眺めているとか。
暑くもなく、寒くもないちょうどいい季節の浜辺で砂の上に座っているとか。
じっさいの思い出だとまたそこから連想ゲームがはじまってしまうので、漠然としたイメージのほうがいいです。
人は登場させないほうがいいです。
人がいるとそこから物語がはじまってしまうので(^^)
出定 (しゅつじょう) 。座禅が終わったら
禅 (禅定。ぜんじょうともいいます) を終えて、もとに戻ることを「出定」といいます。
とくにこれをしないと問題が起きるとかいうものではないです。
長い間、動かずに座っているので脈拍も呼吸も遅くなっています。
いきなり立ち上がると、立ちくらみをしたりするのでその予防と思ってください。
座ったまま、息を吸いながら両手を頭の上に伸ばしていきます。
息を吐きながら、両手を膝の上にあたりに持っていきます。
また、息を吸いながら両手を頭の上に。
これを3回やったら静かに立ち上がりましょう。
気づきの瞑想
日本では、座禅を組んで、微動だにせず精神集中するのが瞑想というイメージがありますが、軽く体を動かしながらする瞑想もあります。
あくまで軽くです。
単純な動作をくりかえすことで、「今ここ」に「気づき」「集中」できる。
過去や未来に連れて行かれて、さ迷うのを防ぐのです。
歩きながらする「歩行瞑想」もアリです。
ただ歩くのではなく、歩く「右足」「左足」に意識を集中して歩くのです。
禅とは「集中して動揺しない状態」のこと
だからものすごく集中した状態が快感でもあります。
モータースポーツ
車やバイクのレース。
これはリラックスはしていません。
でもこの楽しさは緊張ではなく、極限までの集中です。
サーキットを走っているときに、雑念は一切ありません。
今日の晩ごはんとか、明日の予定とか、上司に難癖つけられたとか、そんなことは一切葬り去られます。
それが心地よいのです。
草刈り
おじさんは仕事でほぼ毎日、草刈りをしています。
さすがに毎日だと飽きますが、草刈りをしているときはやはり今日の晩ごはんとか、今夜のテレビ番組のことなんか考えません。
目の前の草に100%集中します。
ほかの余計なことは考えません。
ていうかほかのことを考えたら危ないです。
だから労せずに無心になれます。
雑念は消えます。
楽器の演奏
聞くのはダメです。
聞くことはべつにダメじゃないけど集中はできません。
でもいざ自分が楽器を持って演奏するときは100%それに集中します。
弾き語りはさらに難易度が高い。
楽譜をたどりながら、歌詞もたどって、それにともない指と声帯と舌と口を動かす。
超集中した状態です。
たまにギターを弾きながら「今晩は何にしようかな?」なんて雑念がはいることがあるけど、そうなったらギターを弾くのをやめます😄
すべて意識化すること
人は、大人になればなるほど、無意識に動作ができてしまいます。
歩いたり、走ったり、ごはんを食べるときでさえ誰も、手や足の動きを考えながら動作をしてはいません。
テレビを見ながらごはんも食べられます。
覚えていないけど、赤んぼうのときは、歩くのも、食べるのもものすごく「集中」していたと思います。
それを大人になってもやるのが「瞑想」であり、「今ここ」に「気づく」ことなんです。
スマホをいじりながら食事なんでとんでもない。
牛丼屋なんか行くと「よく見る」んだけど、スマホがテーブルの真ん中においてあって、ごはんは端っこに。
スマホをずっといじりながら、時々ごはんを口に運ぶ(^^)
ごはんを食べるときは、味わうのはもちろん、手の動きにまで集中しましょう。
ぼーっとすること
なんか今まで書いてきたことと思い切り矛盾するようだけど、「ぼーっとすること」って大事だと思うんです。
仕事中とか、運転中はダメですよ!
あくまで「安全な場所」で「ほんとに何も考えない状態」です。
「過去」に飛んでは悔やみ、「未来」に飛んでは心配する「妄想」。これはダメです。
子どものころ、といっても中学に入るくらいまでは窓の外を眺めて「ぼーっとすること」がありました。
もちろん、そうしようとしてしてるんじゃくて、休みの日に家にいて気がついたらしていたということです。
心配しなくても2時間も3時間もぼーっとしてるわけではなくて、しばらくすると自然に我に返ります。
でも、親がこれを見つけるとひどく叱られました。
そして、いつしか「ぼーっとすること」がすっかりなくなってしまいました。
いつも何か考えています。
でも、いつも頭を埋めているのは「過去」の後悔と、「未来」の不安ですね。
じつは「ぼーっとすること」は究極の「瞑想」だった気がします。
頭のスイッチを切って、「過去」にも「未来」にも煩わされない。
そんな大事な時間だったと思います。
おとうさん、おかあさん。
子どもが「ぼーっと」してたら、「瞑想してるんだ」「充電中なんだ」と思って怒らないでくださいね。
こちらでも今ここに戻ることについて書いてます↓
君はまだあの女性を背負っていたのかい? ~ブッダのつぶやき
今の世の中にも通じるブッダの処世術↓
今、お経がおもしろい! (一覧)~ブッダのつぶやき