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「観音」「観世音」「観自在」「翻訳」
観世音 (かんぜおん) と観自在 (かんじざい)
一般的に観音さま (かんのんさま) と呼ばれているけど、般若心経では観自在菩薩と読まれています。
どちらが正しいのでしょうか?
超マニアック・コラム
「観自在」と「観世音」があるのはなぜ?
avalokiteśvaraとavalokitasvara
玄奘 (げんじょう) はavalokita (観察された) +īśvara (自在者) の合成語として「観自在」を当てました。
しかし古いサンスクリットの経典にはavalokitasvaraとなっており鳩摩羅什 (くまらじゅう) はavalokita (観察された) +svara (音・声) の合成語と捉え「観世音」と訳しました。
玄奘は今までの漢訳はまちがっているとして「旧訳 (くやく) 」と呼び、自分が訳したものが正しいとして「新訳」と呼びました。
ちなみにキリスト教は旧約、新約で「神さまとの契約」の意味なのでおまちがいなく。それから西遊記に出てくる「三蔵法師」とは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことですが、玄奘の代名詞のようになっています。
(ウィキペディアより抜粋、加筆)
玄奘は今までの訳はまちがっていると言っていますが、玄奘の訳も正しいかどうかわかりません。
そもそも経典はパーリ語 (俗語、口語、日常語) で書かれていて、経典が書かれたときはすでにサンスクリット語は改まったときにつかわれる文章語になっていました。
今の日本でいうと、パーリ語では「したんだ」、サンスクリット語では「しました」という感じです。
その後、経典がサンスクリット語に翻訳され直して、鳩摩羅什や玄奘などの中国のお坊さんはサンスクリット語に翻訳された経典を、さらに中国語に翻訳します。
パーリ語→サンスクリット語→中国語 (→さらに日本語) のように翻訳されてきたので伝言ゲームのようなもの。
べつの言語は1対1では対応しません。
どうしてもこの国の言葉でいちばん近いのはこの言葉かな?という翻訳になります。
それが、何カ国語にもわたって行われればさらにもとの意味とはズレてしまいます。
しかも語学の専門家の研究チームではなく個人の翻訳です。
まちがい、勘違い、想像による翻訳だらけです。
まして宗教や、神さま、仏さまの名前になるとさらに特殊性が増します。
こういうときはむりに翻訳せずに原語の音をそのまま使う手がありますが、アバロキテシュヴァラでは馴染みにくいので、意味を解釈して「観世音」「観自在」などと中国語にしたんですね。
さらに日本人は中国語はわからないし、むかしの人はほとんど読み書きなどできませんでしたから、「世」は取っ払って「観音」になってしまいました。