目次をご覧になりたい方はクリックしてください→
- 1 はじめに
- 2 症例 ~ 奴隷にされた人の心理・道徳・行動パターン
- 3 第1章 苦の原因を知る
- 4 第2章 奴隷の道徳を植えつけられた人の思考・行動パターン
- 5 第3章 苦の原因を取り除く方法と実践
- 5.1 やること。よく観察し気づくべきこと
- 5.2 他人の言動に無条件に反応しない
- 5.3 自分のせいにするな!
- 5.4 何も言われてないのに言い訳するのをやめる
- 5.5 がっかりされてもいい
- 5.6 自信を持つために
- 5.7 他人のご意向ではなく自分のご意向をよく見る
- 5.8 ほとんどの人はあなたに興味なんかない
- 5.9 お互いさま
- 6 自分のものは自分のもの
- 7 庇を貸して母屋を取られる
- 8 自分の権利は主張する
- 9 努力が報われないのは奴隷の道徳のため
- 10 むすび
- 11 おじさんオススメの記事
- 12 注目の記事
- 13 話題の記事
- 14 人気の記事
「奴隷の道徳」「親の呪い」「脱却」
はじめに
クズ親に植えつけられた奴隷の道徳は、成人してもその人に生涯つきまとい、つねに誤った選択をさせ、人生をまさに「クズ」にしてしまいます。
この問題はとても根が深く、4~5冊の本にできるくらいの量なので、ブログではかなり長くなるけど、それでも書ききれないと思います。
まとまりがなく、おなじことを繰りかえしているところもあるかもしれません。
ごくフツーの親に育てられた人には理解できないでしょうから今すぐこのページを閉じましょう
宇宙の始まりよりも、素粒子の話より訳がわからないでしょう。
人に親切にしているのになぜか罪悪感を覚えるあなたはぜひ読んでください。
そこにはクズ親に植えつけられた奴隷の道徳とそれを守らせるための言われのない罪悪感と隠された「憎しみ」があります。
この「憎しみ」が生じると、罪悪感を覚えるようにプログラムしたクズ親は、世界有数の詐欺師といってもいいでしょう。
クズ親なんて言葉はつかいたくないけど、1人の人間の一生を台無しにしてしまうので、その行為は殺人に匹敵すると言ってもいいでしょう。
じっさい、自分の人生を取り戻せなかった人は自殺することも少なくありません
自分で死にたい生きものはいません。
直接、手を下したのは自分かもしれないけど、クズ親によって殺されたのです。
クズ親で足りなければ、悪魔、鬼、極悪人、人非人といってもいいです。
それでも足りないくらいです。
苦集滅道
これは仏教の考えです。
カンタンにいえば、病気やケガの原因を調べて、それを取り除いたり治す方法を考え、知り、実行することです。
あなたが自分の人生を取りもどすには、まず「苦」の原因を知って、それから「苦」の原因を取り除く必要があります。
この「苦」の原因を知らないと、あなたはいくらポジティブな考えや行動を実践しようとしても、マルウェアによって阻止されます。
「苦」の原因を知って、それにもとづいて自分がどのように考え、どのように行動しているかを知り、それはクズ親に植えつけられた奴隷の道徳であることを知り、それをどのように取り除くか、どのように考え、どのように行動すれば、本来の人間らしい人間の姿を取りもどし、自分の人生を自分のものとできるかを理解し実践することができます。
矢が刺さったまま元気にはなれない
体に毒が回っているのに、気の持ちようだとか、栄養剤を飲んだりしても、体の具合はよくなりません。
まず毒を取り除く必要があります。
あるいは背中に矢が刺さっているのにそれを抜かずにただ「がんばれ」と言ってるようなもんです。
矢が刺さったまま筋トレしても体は強くならないどころかどんどんやつれていきます。
ブレーキを踏んだままアクセルを踏んでも車は前に進まない
べつの言いかたをすれば、いくらアクセルを踏んでも、ブレーキを踏んでいたら車は動かないということです。
アクセルを踏むより大事なことは、まずブレーキを外すことです。
サイドブレーキ引いたままじゃありませんか?
フットブレーキに左足が乗っていませんか?
ブレーキを外せばエンジンがかかってなくても、手で押しても車は動きます。
症例 ~ 奴隷にされた人の心理・道徳・行動パターン
順番が逆になるけどこれを先に書いたほうがいいでしょう。
病気というのは、何という細菌やウイルスが体内で増殖しているかではなく、熱がある、咳が出る、頭が痛いという症状から体の異変を感じます。
心の病気・不具合も、感情や自分の行動パターンに現れます。
人といると疲れる
それもそのはず、いつも自分のことではなく、他人の気持ちと他人の都合ばかり考えているから。
何でも人に譲ってしまう
争いを好まない。
そのために自分が欲しいものも他人に譲る。
欲しいものだけではなく、もともと自分のものや、正当な権利さえ他人に譲り渡してしまう。
いつも自分の都合より他人の都合を優先する。
じつは英語でも people pleaser という言葉があり、何でも人の言いなり、自分より他人を優先する人のことを言う。
しかし心から望んでそうしているのではなく他人に気に入られたい、あるいは他人に気に入られないと自分の価値がないと感じるがゆえで、内心では他人に対して怒りを持っている。
美徳というごまかし。自分は欲しくなかったという嘘
それを美徳にすり替えたり、自分は欲しくなかったことにする。
人と意見が合わないときはかならず他人の意見に従う。
いつも他人が正しくて自分がまちがっていると思う。
言われのない憎しみと罪悪感
人に譲って、人の意見に従っても、何かモヤモヤして不愉快になる。
人に親切にしたはずなのに、不愉快になる。
人にやさしい良い人間のはずなのに、自分が好きではない。
言われのない憎しみと罪悪感を覚える。
当然、すべて人に譲り渡して生きているので、無力感、虚無感に苛まれます。
当たりまえです。
やさしいはずの自分が嫌い
道徳的に人一倍良い人間のはずの自分に、なぜか罪悪感を覚える。
人に嫌われまいとして、自分が自分を嫌いになっている。
そんなことはあり得ないけど、もし百万人に愛されても、自分が自分を嫌いだったらあなたは不幸です。
誰にも何も言われてないのにいつも言い訳している
誰も何も言ってないのになぜかいつも言い訳している。
まわりの人はみんな自分に対して不満を持ち、あるいは怒っていると思いこむ。
だから何も言われてないのに言い訳する。
人が話しかけてくるとかならず文句だと思ってしまう
人の単なる質問も、つねに裏があると思い自分を責めていると感じてしまう。
人の「なぜ~するのか?」という質問は「そんなことするなんてひどいやつだ」
人の「なぜ~しないのか?」という質問は「さっさとやれ!」と聞こえてしまう。
人が待っていると罪悪感を覚える
ガソリンスタンドで給油しているときも、スーパーでレジに並んでいるときも、自分の後ろに人が並んで待っていると、罪悪感を覚えます。
自分のせいで人が待っている。
自分が人を待たせて、人は迷惑している。
と感じてしまいます。
急いでなくてもせかせか動く
時間に追われているわけでもないのに、いつもせかせか動きます。
よくいえばテキパキだけど、そうではなくていつも何かに追われているような感じです。
1人なら何でもできるのに他人がいるとできない
おじさんは1人でアメリカに行き飛行機の免許を取ってアクロバットの大会にも出ました。
自分で言うのも何ですがここまでやる人はなかなかいないでしょう。
すくなくともおじさんのまわりにはいません。
こんなに行動的で、大胆なのに、こと人と関わると急に奴隷に成り下がってしまいます。
手や声の震え
緊張したとき、人前で何かしなければならないとき、人の注目を浴びているとき、細かい作業をするとき、とくに液体のはいった取手のない持ちにくい容器を持つときなどに、手や声が震えます。
24時間何もしなくても震えているのではなく、上記のように特定の状況でだけ震えるのです。
1人なら細かい作業をしても震えません。
自分は何もできないダメな人間だと思っている
「どうせ私なんか」というのが口癖。
何もできない。
何してもうまくいかない。
何をやってもダメだ。
そう思っています。
いやそう思いこまされています。
失敗ばかりしてきたから?
ちがいます。
このあとを読めば理由がわかりそこから脱却できます。
自信がない
上のような状態では自信がないのは当たりまえですが、ほんとはべつの理由があります。
これもこれから説明しましょう。
理由がわかれば自信を持つことができるようになります。
第1章 苦の原因を知る
ブッダにならいます。
背中に矢が刺さっているならまずその矢を抜いてから治療しなければなりません。
矢を抜かずに栄養ドリンクなぞ飲んでも治りません。
どんなに啓蒙書を読んでも、がんばれソングを聞いても、矢が刺さったまま、毒が体中に満ち満ちたままでは元気にはなれません。
ブッダの説く「苦」は「渇愛 (欲) 」ですが、おじさんがここで説くのは「奴隷の道徳」です。
苦の原因は「奴隷の道徳」
ふつうの人でも悩みがありいろんな苦しみがあります。
でもあなたはそれ+α、よけいな苦しみがあります。
ふつうの人には理解できない苦しみです。
それはこの記事でいちばん大事な、クズ親に植えつけられた「奴隷の道徳」です。
クズ親はたくみに子どもに気づかれないように、あるいは気づきそうになると「罪悪感」を覚えるようにしてあなたをコントロールしてきたので、あなたはそれに気づくのがむずかしいです。
真理を見ようとすると「罪悪感」を覚えるんだから。
罪悪感だけでなく言われのない不安・憎しみ・怒りも感じます。
それらはマイナスの感情なので、それも心の奥底に隠してしまいます。
しかし、そのマイナスの感情は消えたわけではないので心の奥底であなたをジリジリと焼きつづけています。
あなたはそれで憔悴しきっている。
クズ親があなたにしたこと
残念ながら親はあなたのことをこれっぽっちも愛していません。
たちが悪いのは当人は愛していると自分自身 (親) でさえ騙していることです。
自分の我儘や非人道的なふるまいもすべて愛情ゆえだと思いこんでいます。
はっきりいって頭がおかしい人です。
狂人といっていいです。
ここで「子どもを愛さない親はいない」と社会通念や一般常識を持ち出して自分の非人道的なふるまいを正当化どころか美化しますが、「子どもを愛さない親はたしかにそこにいる」のです。
あなた自身も「自分が親に愛されていない」と気づいて認めるのはとても辛いことなので「愛されている」と思いこもうとします。
これがあなたを苦しめ人生をクズにしてしまいます。
愛されてない親に愛されていると思い、非人道的なことを博愛だと思いこみ、いや思いこもうとし、親の過ちを正しいとすれば、逆にあなたがまちがっていて、非人道的な人間であるかのように思いこみ、そのように振る舞わなければならなくなります。
だから親がどんな理不尽なことを言って、傍若無人に振る舞っても、あなたは「自分が悪いんだ」と自分を責めることに決めていました。
あなたはどんなにやさしくて、思いやりがあって、人に親切に振る舞っても、けっして自分がいい人間だと認められない。
謙遜で「わたしはそんな大した人間じゃないですよ」と言ってるのではなく、本気でそう思っています。
依存関係
これは、大人でもあります。
典型的なのがDV。
家族だけでなく、恋人や、友人、会社その他の人間関係でも起きます。
大人なら心理的にも経済的にも自立できるはずなんですが、
「嫌われたくない」
それどころか
「この人に嫌われたら生きていけない」
とさえ思いこみ、あるいは思いこまされています。
カルト宗教もそうです。
すべては「依存心」から生まれます。
子どもが大人とちがうのは、
親に見捨てられると
「住むところがない」
「食べるものがない」
という経済的な理由です。
大人は自分で働いてアパートを借りたり、ご飯を食べることができるし、何より自分の頭で考えることができます。
また鎖でつながれたり、檻に入れられているのでなければ、「自分の意志と力で」そこから、その相手から離れることができます。
すぐにアパートが借りられなくても逃げる場所はあります。
友だちや家族がいなければ警察でもいいです。
今すぐ離れましょう。
じつは誰かに依存して自ら奴隷になっている人も、あなたを奴隷にして利用している一見支配者のほうも強い依存心があります。
奴隷であるあなたに依存しています。
だからもし奴隷であるあなたが正気にもどってその支配者から離れてしまうと、一見強そうだった支配者は生きていけません。
べつの言いかたをすれば一見支配者のほうは寄生虫です。
あなたのようなカモを探して寄生して栄養を吸い取っています。
だからあなたのような宿主がいなくなってしまうと1人で生きていけません。
だから一見支配者はあの手この手で奴隷であるあなたを縛りつけようとします。
大人であるあなたは、支配者がいなくても1人で生きていけるし、自分で選んで離れることができるので今すぐ離れましょう。
一見支配者はあなたが正気にもどって離れようとすると、今までの暴力とは打って変わってこんどは「泣き落とし戦術」に転向してあなたに縋りついてきます。
そんなもんに引っかかってはダメです。
それは「いつもの」作戦だから。
容赦なく足蹴にして、その寄生虫から離れましょう。
しかし、子どもはかわいそうに極悪非道な親から離れることができません。
ある程度成長して自分で働いて食べられるようにならないと、このクズ親から離れることができません。
またクズ親に奴隷扱いされていることもまだ理解できないので親戚や友だちがいても相談することもありません。
さらにクズ親は「外面 (そとづら) がとてもいい」ので、かりにまわりの人に助けを求めても子どものほうが悪いと思われて相手にしてくれないこともあります。
目で見える痣や傷などがないと、警察も児童相談所も介入できないというめんどくさい掟があります。
お尻を叩く理由
毎日のようにお尻を叩かれました。
もちろん一切、理由はわかりません。
というか理由はありません。
クズ親の鬱憤ばらしですから。
おじさんはサンドバッグですから。
躾が目的なら、おじさんがこんなことをしたから、それをしないように、ということだけど、何百回、何千回、何万回叩かれてただの1度もこれが悪かったんだという記憶がありません。
お尻は毎日のように叩かれたけど、顔を叩かれたことはありません。
親がやさしかったからでしょうか?
虐待が世間に知られないように
いいえ。
顔を叩いたり殴ったりすると痣や傷が残るからです。
隣近所、先生にバレてしまいます。
顔は叩かれなかったけど、父親に金槌で頭を叩かれたことはあります。
もちろん手加減はしたけど。
流血したら世間にバレてしまいますからね。
これは忘れもしない。
完璧な冤罪です。
しかも、母親は知ってて止めなかった。
まったく揃いも揃って非道い両親です。
またお尻を叩かれると怖いのと痛いのでとうぜん泣くんだけど、頭のおかしい親はいつもこう言いました。
「泣くな!泣くともっとぶつぞ!」
叩くから泣いてるんだよ。
これも近所に聞かれたら困るからでしょう。
1度だけ親の機嫌がいいときに、なぜ体のほかの場所でなくお尻を叩くのか聞いたことがあります。
答えはこうです。
「お尻は痛くないから」
アホか!
バカも休み休みに言えよ!
痛いわ。
痛くなかったらお尻を叩く意味がなかろう。
親の腕力と権力を誇示するため
お尻を叩く理由はもう1つあります。
お尻を叩くときは子どもを立たせて叩くなんてことはありません。
かならず逆さまに抱えてぶつんです。
つまり子どもが小さくて、軽くて、まだ力も弱くないとできないことです。
こうすることで、顔を引っ叩かれるよりむしろ親の力を誇示できます。
「どうだ。俺様のほうが力があるんだぞ」と。
しかもパンツを脱がして直接、肌を叩きます。
そのほうが痛いし、何より「脱がされる」ということで痛み以上に屈辱感を与えられます。
この肉体的な暴力だけでなく、精神的な暴力。
これは聞いたわけじゃないけど多分そういうことだと思います。
もちろんおじさんは60年生きてきて自分の子どもにしたことはないし、この先もすることはありません。
そんな低級で非人道的な悪行を。
そんなことをする人間は
「わたしは人間のクズです」と吹聴しているようなもんじゃありませんか。
子は親の鏡
おじさんの子どもは叩いたこともないし、怒鳴ったこともないけど、素直でやさしく思いやりのある人間に育ちました。
親バカかもしれないけど、人は叩かなくてもちゃんと育つんです。
いちばん大事なのは「自分の行い」です。
子どもは何でも親の真似をするので、
「やってはいけないことはやらない」
「自分が望む人間になって実践する」
それだけで充分です。
そうすれば一々「これはやってはいけないよ」なんて言わなくても子どもはやりません。
「人に親切にしなさい」なんて言わなくても、親が人に親切にしていれば子どもはそれを真似します。
それが「親切だ」なんてことも考えずに。
親がやっているんだから、それが当たりまえ。
もしあなたの子どもが暴力をふるうなら、あなたが子どもに暴力をふるっているという証です。
クズはクズと結婚する
片方の親がまともであればまだ救いがあるんですが、残念ながらまともな人はクズと結婚しません
おなじような価値観の似た者同士が一緒になります。
だから片親が理不尽なことで子どもをいじめていても、もう片方の親はかばうどころか一緒になっていじめます。
とくに精神が成熟してない幼稚園児同士が結婚すると最悪です。
救われません
体だけ大きくなった幼稚園児
クズ親の正体は体だけ大きくなった幼稚園児です。
幼児ならスーパーの床に寝っ転がって「買って買ってえ」と泣き喚いても誰も相手にしてくれません。
しかし、これがそのまま体だけ大きくなってまちがって子どもを作るから、生まれた子どもはいい迷惑。
権力だけ手にしてしまった、精神的に未発達の幼児です。
幼児が拳銃を手に入れてしまったようなもんです。
最近、発達障害という言葉が流行っていますがおじさんは大嫌いです。
異様に発達障害の人が多い。
発達障害といえば何しても許されるのか?
発達障害は免罪符か切り札か?
酒の上での蛮行は許されるようなおかしな社会。
それは発達障害という病気ではなく、単に成熟していないだけです。
むかしから落ち着きのない子とか、乱暴だとか、いろんな子どもがいました。
完全無欠な人間なんかいなくて、みんな心や体に何かしら不都合なところを抱えて生きています。
でもそれは大人になって社会で生きていくために学校や友だちの中で、鍛えられ、社会性を身につけていきます。
目に見える、たとえば手や足がないという人も、その体で生きて行くように。
厳しく教育しなくても、他人に危害を加える人間は嫌われ、人が離れていきます。
そんな中で、こんなことをしたら人に嫌われるとか、自分自身、人からされたら嫌なこととか学んで行くんです。
この幼児のまま子どもをつくった親が、どれだけ子どもたちを傷つけ、苦しめていることか。
第2章 奴隷の道徳を植えつけられた人の思考・行動パターン
先に書いた症例の繰りかえしになりますが、なぜあなたはそのように感じるのか?クズ親に植えつけられた「奴隷の道徳」がどのようにあなたの行動を支配しているのかをもうすこし詳しく見てみましょう。
奴隷の道徳から脱却するためには、まず奴隷の道徳がどんなものかよく知ることが必要です。
それは辛く悲しいことかもしれないけど、自分の人生を取り戻すためにはやらなければなりません。
これに目をつぶり、奴隷の道徳を直視することを避ければ、あなたはこれからも奴隷の一生を送ります。
それで幸せならそれもありかもしれないけど、けっして幸せになることはありません。
幸せな奴隷なんていません。
奴隷は自分の権利も希望もすべて捨てて、いつもすべて人に譲り渡してしまいます。
背中に矢が刺さったままでいくらあなたが筋トレしてもマッチョにはなれないんです。
トレーニングすればするほど、背中から血が溢れ、毒が体を回り、さらに弱っていきます。
まずあなたの矢はどこにどんなふうに刺さっているのか理解して、はじめてその矢を抜き取ることができます。
いまのあなたは、あなたに刺さっている毒矢が見えません。
血もたくさん流れているのに、あなたにはその傷口や流れる血さえ見えなくなっています。
それはクズ親にそのようにプログラムされたからです。
人といると疲れる
そりゃそうです。
あなたは親だけでなく自分以外のすべての人に奴隷として接して、自分の権利や気持ちや希望などすべて無視して他人に尽くしているからです。
たちが悪いことに、あなたはそのことに気づいていません。
「お前は奴隷だ!」とあからさまに言われ、武器で脅されて、しかたなく言いなりになっているのなら、あなたは相手を尊敬しているのでも納得しているのでもなく「殺されないために」、自分を守るために自らそうしているのだと理解できます。
しかしクズ親はたくみに、ずる賢く、それを「美徳」や「社会通念」に置き換えてあなたを支配しました。
言葉や体の暴力もふるいます。
しかしそれらは「愛情」からすること、「あなたのため」とあなたを騙してやってきました。
あなたの父親は会社で上司に怒られたけど、上司に逆らえないので家に帰ってきて、「何も悪くない」あなたをサンドバッグ代わりに叩きます。
口汚く罵ります。
でもそれは親の八つ当たりではなく「あなたのため」の愛情ですから
親の自己欺瞞
奴隷の道徳とかならずセットにしてつかわれるのがまず「親の自己欺瞞」です。
暴力をふるうための大義名分が必要です。
何も悪いことをしていないあなたを殴るのですから、親も自分自身を騙す必要があります。
「俺は腹いせに悪くもない子どもをサンドバッグにして、憂さ晴らししてるんだ。ハッハッハッ。ああ愉快。スッキリ!」と自覚しながらやる人間はなかなかいません。
誰しも自分は良い人間だと思いたいので、八つ当たりで子どもを殴るときにも、「それは子どもが悪いからだ」「子どもが良い人間になるように教育してあげてるんだ」という嘘で自分を正当化します。
というか騙しています。
最初は騙し騙しだったんだろうけど、慣れてくるともうそんなこと考えなくても無意識で「子どもに八つ当たりできる」ようになります。
そして、それは日常化します。
嫌なことがあったら、気分が悪かったら、子どもを殴ればいい。
だって「子どもが悪いので」「自分は躾のためにしてあげてる」のだから。
これはムシャクシャしてたから火を点けたとか、無差別に人を殺したという精神異常者とおなじレベルです。
対象は世間の人たちではなく、逃げる場所のないかわいそうな子どもたちです。
子どもに植えつける罪悪感
そしてもう1つ、奴隷の道徳にかならずついてくるのが「子どもに植えつける罪悪感」です。
まずは自己欺瞞で自分を騙すことはできました。
でもこのままでは子どもがとうぜん納得行かず、親に問いかけたり、反抗 (いや、当然の行動ですが) したりします。
「ぼく、何も悪いことしてないのにどうしてぶつの?」
幼稚で自己中心的というか傍若無人にふるまう親にとって、これは邪魔です。
子どもはサンドバッグなので「痛い」とか「やめて」とか口を利いては叩きにくいじゃないですか
だから子どもの口を封じる手段を講じます。
それが伝家の宝刀「罪悪感」です。
これは便利です。
これさえ植えつけてしまえば、毎回生じる子どもの当然の疑問や親に対する疑問・反感を完全に封じこめて、やりたい放題ですから。
心置きなく子どもを叩きのめしてスカッとすることができます。
だって、でもと言うな!
とにかくこれを言われましたね。
それから「口答えするな」
完全に秩序が崩壊しています。
一切、サンドバッグに、もとい子どもに口を利かせなければ、親はしたい放題です。
言い訳ではなく、正当な質問・反論です。
子を愛さない親はいない
という嘘。
ここにいます。
そして世の中にたくさんいます。
これは子どもを叩くことを正当化して、サンドバッグが口を利かないようにするための呪文です。
おまえのために「してあげてる」
これもよくつかいます。
これはクズ親にかぎらず世の中に出ても大人たちがよくつかうセリフです。
当然、社会的に立場が上の人間しか吐かないセリフです。
会社の上司、学校の先生、先輩など。
愛情にもとづき、「あなたのため」にしているのだから、それに対して疑問や反感を持つのは人として、道徳的に「悪い」ことだと吹きこみます。
とにかく恩着せがましいです。
しかもほんとうの恩ではなく、自分だけの歪んだ欲望を満たすことを恩と謳って押し着せます。
物心つく前から埋めこまれた猛毒プログラム
この罪悪感はあなたが物心つく前からずっと植えつけられたというか、心の奥底に埋めこまれたプログラムといってもいいです。
コンピュータに侵入して見えず、気づかず動くマルウェアのようなものと言ってもいいです。
ヒーロー物で悪の博士が笛を吹くと、ヒーローが苦しむようなスイッチといってもいい。
これは見えないように、気づかれないように、心のいちばん深いところに埋めこまれています。
それが作動していることもわかりません。
あなたはこのようにプログラムされています。
すべての親は子を愛している。
→だから親がすることは自分を殴ることもふくめてすべて愛情にもとづき、子どもである自分のためにしてくれてる。
→その「愛情ある」親の心や行動に疑問を持ったり、反感を持ったりするのは人間として悪いことである。道徳に反している (奴隷の道徳ですけどね。そのことには気づきません)
→もし自分を叩く親に疑問を持ったり、憎んだりする感情が出てくると「自分はなんて罪深い人間なんだ。自分を愛してくれて、自分のために殴って下さっている親を憎むとは」と思うようになります。
何の落ち度もないのに人から罵られたり、殴られたり、物を盗られたりすれば、あなたは「怒って」当然です。
相手を憎んで当然です。
でも親は罪悪感というプログラムを埋めこむことで、あなたが親にいっさいの疑問や反感を持たないようにコントロールしています。
もしあなたの心の中に疑問や反感が浮かんでくると、あなたは自分自身を「悪い」と思うようにセットされていて、自分自身を「憎む」ようになります。
いいえ、ほんとは「クズ親を憎んでいるんです」
当たりまえです。
何も悪いことをしていない自分を、八つ当たりで、腹いせにサンドバッグにしている相手に怒りを覚えたり、憎んだりするのは、それこそ悪いことではありません。
当然です。
でもクズ親はたくみにあなたに罪悪感を植えつけ、親がどんなに理不尽で傍若無人なふるまいをしようが、子どものあなたは親に対して疑問や反感を持たないようにプログラムされています。
親が理不尽であれば理不尽であるほど、あなたはその親の代わりに、自分自身を憎む構造になっています。
虐待されている子どもはいつもこう言います。
「ぼくが悪いんだ」
何でも人に譲ってしまう
上に書いたことでほかの症例もすべて理解できます。
あなたは奴隷なんだからすべて人に譲るのが当たりまえです。
親はあなたにすべてを親に譲り渡すように仕込みました。
そこに疑問や反感の入りこむ余地はありません。
あなたは無条件ですべてを親に差し出します。
あなたの心も体も。
あなたは物を所有するどころか、自分自身の感情を持つことも許されません。
あなたが悲しくても親が楽しい気分でいたいときは笑っていなければなりません。
あなたが嬉しいときでも親が悲しんでいるときは、あなたは笑ってはいけません。
あなたが悲しいときに悲しい顔をしていると
「なんて顔してんの!こっちまで気分悪くなるわ!」と吐き捨てられます。
いいえ、親の気分や感情はあなたとは関係ありません。
反対に親が嫌なことがあったときに (いやいつも嫌な気分で朗らかなことなんかないけど) 子どものあなたが笑うと、
「人が悲しんでいるときに笑うなんて冷酷なやつだ」とあなたを非難します。
いえいえ、親のあなた以上に冷酷な人はこの世に存在しません。
この毒プログラムが問題なのは、成人して親から離れても一生あなたを支配することです。
あなたは親に対してだけでなく「世の中すべての人に」奴隷として仕える生きかたを強いられます。
もちろん無意識です。
それは「美徳」とか「他人に対する親切・思いやり」という言葉で粉飾されています。
あなたはやさしい気持ちで、人のためにしてあげてる、と思ってるけど、ほんとは奴隷の道徳というプログラムで動いているだけです。
もちろんあなたはやさしい人です。
でも、やさしさや思いやりは、あなたのすべてを人に譲り渡してあなたが一文無しになって橋の下で暮らすことではありません。
それはやさしさではありません。
あなたにもあなたの人生があり、他の人とおなじように生きる権利があります。
それをすべて他人に譲り渡してしまうのは異常なんです。
言うまでもなく親に植えつけられた奴隷の道徳と罪悪感であなたは自分の気持に関係なく人にすべて譲り渡してしまっています。
美徳というごまかし。自分は欲しくなかったという嘘
クズ親はあなたに、これは「美徳」だとか「道徳」だとか「倫理」だとかきれいな言葉を並べて、「人にやさしくするのはいいことだ」と教えました。
もちろん人にやさしくするのはいいことです。
悪いことであるはずがありません。
問題はやさしくするのではなく、「親に絶対的に服従する」という奴隷の道徳を植えつけるために親はこういう言葉を並べてあなたを支配したということです。
あなたはふつうの人間です。
ほかの人と同じように。
特別な人間ではありません。
あなたにも欲があります。
これは悪いことではありません。
あなたにも欲しい物があります。
これは悪いことではありません。
でも親はあなたに一切の「欲」を捨てるように調教しました。
そしてすべては「親の欲」を満たすために行動するようにあなたを調教しました。
もちろん親は「親の我儘だけを叶えるように行動してね」なんて言うはずがありません。
親自身が自己欺瞞で自分は「高潔な人間」である、人格者であると思いこんでいますから。
「親の欲を叶えるための奴隷になれ」とは言えないから、「美徳」「道徳」「倫理」「そうするのが当然」「それが社会常識」「子どもは親を尊敬するのが当然」「親に疑問や反感を持つのは悪い子ども」とありとあらゆる言葉であなたを調教しました。
あなたの親は「子どもは親を尊敬するものだ」とよく言ったでしょう。
でもどうでしょうか?
あなたの親は、自分の親、つまりあなたから見ると祖父母を尊敬していたでしょうか?
祖父母を大事にしていたでしょうか?
否
あなたの親は自分の親、つまりあなたの祖父母のことをいつも悪く言っていたでしょう。
自分は自分の親を尊敬もしていないし、大事にもしていないのに、自分の子どもには自分を尊敬しろという。
あなたの親は自分の親を悪く言い、自分の子どもも悪く言い、世の中のすべての人々も悪く言い、自分だけが正しいと思いこんでいます。
とんでもない愚か者です。
あなたの親は自分が世の中でいちばん偉くて、世の中すべての人が自分のために尽くすべきだと思っているんです。
いわゆる自己中心主義者です。
ガチガチの。
世界は自分のために回っていると思っている。
しかし、現実には世の中の誰も自分を尊敬してくれない。
大事にしてくれない。
特別扱いしてくれない。
会社では上司に怒られる。
そこで唯一、立場上弱く、親に見捨てられたら生きていけない自分の小さい子どもに当たるんです。
八つ当たりしていると自分で思いたくないし、子どもにも思われないように、美徳…その他の言葉や道理で。
クズ親はほんとは知っています。
自分はそれほど偉くないし世界は自分を中心に回っていないことも。
自信に満ちた王者ではなく、いつ子どものあなたに見透かされるかビクビクしながら虚勢を張っている臆病者です。
でもそれを必死で隠そうとしています。
子どもにだけでなく、自分自身にも。
だからもし子どもが自分の矛盾を突くような言葉をいえば、激怒します。
それは図星だからです。
自分の偽の権威が崩れてしまう。
世の中の誰も自分を尊敬してくれないから、無理やり子どもに尊敬させている
自分が自分自身も子どもも騙していることに気がつかされ、自分の劣等感や惨めさに真正面から向き合うのが怖い。
だから火が点いたように激怒します。
必死で気がつかないふりをしているけど、ほんとは気づいていて、それを隠すためにあなたを殴ります。
劣等感の塊です。
ただあなたを鬱憤ばらし、憂さ晴らしのために奴隷あるいはサンドバッグにしていることは当人でさえわからなくなっています。
この無意識に習慣的に自動的にしている悪行ほどたちの悪いものはありません。
自分は最初から欲しくなかった
泣けてきますね。
もしはっきりとした欲があり、それを我慢したり諦めなければならないと、苦痛が生まれます。
だから「はじめから欲しくなかった」ということにします。
心理学で防衛機制といいます。
それには価値がないと思いこませる
イソップに出てくる狐みたいです
おいしそうなブドウがなっていたけど、枝が高くて取れない。
「ちぇっ、あのブドウは酸っぱいに決まってる」
これは笑い話みたいですが、あなたはそうしてすべての「欲」を踏み倒していきます。
いや、正確には親によって踏みにじられていきます。
これも罪悪感によって、あなたは「自分が物を欲しがるのは悪いこと」と思いこむようになります。
親が言わなくても罪悪感を埋めこんでおけば、あとはあなたが自分でそう思うようになるので親にとってはとても都合がいいです。
こうしてあなたは「何も欲しがらない、いい子」になります。
また次のチャンスがあると思いこませる
人に譲るとき「自分にはまた次のチャンスがある」と思いこませます。
だからいまここでは人に譲ってもいいと。
しかし現実には次のチャンスはないんです。
2度とチャンスは巡ってきません。
一生、手にすることなく臍を噛むことになります。
具体的な例はあとで書きます。
何をしたらいいかわからない。何もしたくない
こうしておじさんのように大学から就職ということを考えなければならない時期になって絶望の淵に立たされます。
自分は何もしたいことがない!
いいえ、「自分がやりたいことがない」のではなく、「親の自己満足を叶えることで、自分のできることがない」ということなんです。
そもそも自分が「欲」を持つことを禁じられた。
「何かをしたい」という気持ちを禁じられて毎日生きてきた。
何も欲しがらない訓練を積んできたんです。
その成果です
ブッダでも35歳で悟るまで成し得なかった「渇愛」「貪欲」からの解放です
ずっと親のためだけに生きてきた。
親の気持ちと感情と「ご意向」だけを、親の顔色だけを窺って生きてきた。
そして、精一杯親のために尽くしても罵られる、殴られる。
20くらいになって突如「あなたは将来何になりたいの?」と聞かれても答えられない。
というか「親はわたしに何になってほしいと願っているの?」と聞きたい。
一生、親の奴隷ですか?
「無欲」というより、生き甲斐、生きる気力をすべて親に奪われたのです。
夢や希望をいだくことを禁じられた人に残るのは「無気力」「虚無感」だけです。
クズ親の矛盾と誤算
クズ親はあなたを奴隷にして、一切の欲を捨て、一生親に奉仕するように調教したくせに、あなたに「立派な人間」になってほしいと望みます。
まあクズ親の考える「立派な人間」とは「親に奉仕する奴隷」なんだけど、いっぽう「親類縁者、隣近所に自慢できる子ども」になることでもあります。
自慢できるというのは「人格的に立派である」ことではなく、有名大学にはいったとか、有名ブランド企業に就職したということです。
しかしこれは相反しています。
親に奴隷として尽くしながら、大学受験とか、仕事のことを考えられますか?
奴隷であることを強いられながら、「自分の将来の道」を考えられますか?
将来、どんなことをしたいという「欲」も捨て去りました。
いや捨てさせられました。
そのくせ親は「将来、何になりたいの?」と抜け抜けとのたまいます。
おじさんは小学校の卒業文集を大きくなってから見たときに仰天しました。
そこに「総理大臣になる」と書いてあったからです
それが本心なら問題ありません。
なれるかどうかは別としてそれが自分自身の「欲」であり「望み」であり「願い」であるなら笑うことではありません。
でもここまで読んだ人はわかりますよね。
これは親に書かされた言葉だということを。
じっさいおじさんは政治に興味もないし、人前でしゃべるなんて当時は苦手だった (そりゃそうでしょ。奴隷が自分の意見を人前でとくとくとしゃべれるわけがない) ので総理大臣になるなんてまったく考えたこともありません。
親に奴隷として100%服従し、自分の権利も欲もすべて奪われた人が総理大臣になれますか
親はこの矛盾にまったく気づいていません。
自分の忠実なしもべにしながら、世間に自慢できる人になれと。
よくこうも言ってました。
「人の上に立てる人間になれ」
アホか。
奴隷の道徳を埋めこんで、どうして人の上に立てるのか!?
支離滅裂です。
ほんと頭おかしいです。
おじさんは小学校のころから班長や生徒会長もやりました。
それは自分の望みではなく、そういう役職になると親が褒めてくれたからです。
それを愛情と勘違いしていた。
ほんとに今ここに子どものころのおじさんがいたら、おじさんがギュ~っと思いっきり抱きしめてあげたいくらいです。
痛々しいです。
おじさんも頭がおかしくなりました。
当たりまえでしょう。
秩序が崩壊しています。
世界一の太鼓持ちになれというのならすこしは辻褄が合いますが。
むかしおじさん (母の弟) が母と口論していて
「あれじゃ〇〇くん、かわいそうだよ」
と言ってたのをまた思い出しました。
そういうことだったんですね。
このおじさんは母がおかしいということに気づいていたんです。
言われのない憎しみと罪悪感
これももう説明の必要はありませんね。
まず憎しみは「親に対して」向けられた感情です。
当たりまえです。
何も悪いことをしていない自分を腹いせでサンドバッグとして叩く。
しかし、親は子どもを愛するということになっている。
親は自分のためにしているということになっている。
親は愛情にあふれているということになっている。
その親に憎しみを感じると罪悪感が生まれるように調教されている。
罪のない自分を足蹴にする人間を憎むのは当たりまえのこと。
でも親を憎むのは奴隷の道徳に反しているので、「憎しみや怒りを覚える自分を罪深く感じる」
それを感じたくないので、憎しみや怒りは存在しないかのように思いこもうとする。
しかし、臭いものに蓋で、フタをしても憎しみや怒りが消えたわけではない。
それらは自然に消火するわけではのでいつまでも燻り (くすぶり) つづける。
しかし憎しみや怒りといったマイナスの感情を持つのは道徳違反なので、親に向けることができず自分自身に向ける。
わたしが人を殺しました、というようなちゃんとした理由がないので「言われのない憎しみと罪悪感」という形で自分の心を燻りつづける。
寝ても覚めても、何をしても、何もしなくても、いつも「罪悪感」に苛まれるようになります。
やさしいはずの自分が嫌い
あなたはそもそもやさしい人です。
クズ親に調教されたせいもあるけど、そんなクズ親と何とかうまくやっていこうとし、クズ親の理不尽な要求を受けつけてきました。
親だけでなく人にもやさしいです。
知らない子どもが転んだら「大丈夫?」と声をかけて手を差し伸べる。
ベビーカーを押しているお母さんがいたらドアを開けてあげる。
これはほんとうのやさしさで、いいことです。
これからも続けてください。
問題はほんとうのやさしさではなく、不本意なやさしさです。
強要されたやさしさです。
無理強いされたやさしさです。
あなたが心からそうしたいと願ったのではなく、脅迫的にさせられていること。
明らかにまちがっている親の論理に気づかないふりをして、それに従うこと。
こういうときあなたは無意識かもしれないけど、心の奥底では気づいているもう1人の自分がいるので「自分がいいことをした」「自分はやさしい人間である」と思えないんです。
ほんとは本意ではなく「させられている」ことにもう1人の自分は気づいています。
でも気づいているのは意識下の自分で、ふだんの意識している自分は気づかないようにしています。
これが病的になると、二重人格になり、意識下のもう1人の自分が何かの折に現れるようになります。
ほんとは自分が欲しかった
人にすべてを譲り渡してしまう。
ここにやさしいはずの自分を嫌う理由があります。
自分の心からの気持ちで自分を完全に捨ててしまわない方法や行動ならあなたはいいことをして「気持ちいい」はずです。
それはたとえ相手にお礼を言われなくてもです。
でも人にやさしく親切にしたはずなのにモヤモヤする。
はっきりいって不快な感じがする。
もちろんあなたは悪いことはしていません。
というかふつうの人がしない、ふつうの人以上のことをしています。
でも、なんかモヤモヤする。
気持ち悪い。
そこにはそこはかとない「憎しみ」や「怒り」さえあるような気がする。
そして、そんな気持ちを抱く自分をまた責めます。
そこには
「ほんとは自分が欲しかった」
「人にあげたくなかった」
という真意があります。
でもそれはマイナスの感情や考えなので、親に埋めこまれたプログラムによって心の奥底にしまいこもうとします。
分け与えるのとすべて譲り渡すのはちがう
人にすべてを与えるのはいいことのように思えます。
しかし当然自分はすべてを失います。
おかしいです。
そしてすべてを失った自分は、むしろ他人の世話にならないと生きていけなくなります。
これでは本末転倒です。
人に全財産を譲り渡して、生活保護を受けるようなもんです。
結果的に社会のお荷物になって人の厄介になっています。
人にしてあげた以上に、人にしてもらう存在になってしまいます。
人に何かするとき、与えるとき、自分の分を残しておくのは当たりまえです。
あなたは自分の人生や生活を自力で続けられる状態で、人の手助けをするのが正しいやり方です。
あなたは人が欲しがるものを何でも「いいよいいよ」と譲り渡してしまいます。
でもほんとは自分が欲しかったんです。
自分が欲しかったどころか、もともと自分のもの、自分に正当な権利があるのにもかかわらず、人にやってしまいます。
人に気を遣わせないようにと「いやいや、べつにわたしは要らなかったんだ」と嘘を言います。
モヤモヤするのは「自ら進んで人に与えた」のではなく「人に無理やり取られた」という気持ちがあるからです。
もちろんこの気持はマイナスの感情なので、意識下に抑圧します。
すると「なんかわからないけどモヤモヤする」「なんかわからないけど不愉快な感じがする」ということになります。
いいことをしたはずなのに。
これはクズ親に埋めこまれた奴隷の道徳だということに気づきましょう。
誰にも何も言われてないのにいつも言い訳している
それは何も悪いことをしていないのに、いつも親に「怒られた」からです。
あなたがまちがって人の足を踏んでしまったのなら、迷わず「あっ、ごめんなさい」といって足をどけましょう。
これは当たりまえです。
ふつうです。
でも何もしてないし、人からも何も言われてないのに、人はいつも「自分に不満を持ち、文句を言っている」と思ってしまいます。
それは親がいつも、あなたが何をしても、何もしなくても、いつも「あなたに不満を持ち、文句を言っていた」からです。
厳密にはあなたに不満があるのではなく、クズ親がクズ親自身に不満を持っているんです。
自分に対する不満を、子どもであるあなたに転嫁して、あなたをサンドバッグにする。
あなたのせいではありません。
親がクズなんです。
しかし1日24時間、1年365日、クズ親はあなたに不平不満を言い、あなたを否定し、あなたを侮辱し、あなたに言葉でも腕力でも暴力をふるってきました。
だからあなたはいつも怯えています。
じっさいには親はあなたに関係なく不機嫌なので、あなたが何をしても、何もしなくてもあなたを殴ります。
口実などいくらでもつくれる。
いや、口実さえなくてもいい。
親は偉いのだからいつでも好きなときに子どもを殴れる。
あなたはやっと成人して、ほうほうの体で家を出て自活したかもしれないけど、この心の傷やマルウェアはあなたの心の奥底に巣食っています。
あなたはそのことに気づいていません。
社会に出てからも、他人はいつも自分に不満を持ち自分に文句を言ってるのではないか?
他人はいつも自分に対して気が利かないやつだと思い、自分に何事か要求していると思っている。
その他人の「ご意向」に気がつかない自分は人間として失格だと思う。
罪深いと思う。
いえいえ、それじゃあ伺いますが、他人はあなたの「ご意向」に気がついていてそれをあなたのためにやってくれますか?
だれもあなたのためにやってくれません。
いや、それが当たりまえです。
だから、あなたも他人の「ご意向」に沿う必要はないし、気がつかなくても何も問題はないし、道徳的に反することでもありません。
あなたは特別ではありません。
なぜあなただけが他人の「ご意向」を理解しそのように行動しなければならないんですか?
すべてはクズ親のせいです。
人に何かを言うときおかしくもないのに笑う
まあ愛想笑いの一種ですが病的です。
また楽しい笑いではありません。
冗談を言って笑うのではなくて、人に何かを頼むとき、言いにくいことを言うときに笑います。
お手柔らかにお願いしますという卑屈な笑い
これは言い訳とおなじです。
人に何かを頼んで、相手がその気ではなかったり、忙しくてできなかったりするときに断られるのはしかたないことです。
それはあなたの人格や人間性や性格とは何の関係もありません。
ただ、相手の好みや都合にすぎません。
繰り返します。
あなたの人格や言動とは何の関係もありません。
でも「わたしはあなたに敵意はありません」
「だから、たとえ機嫌を損ねるようなことを言ってもご容赦ねがいます」
という気持ちがあって笑います。
人に何かを頼むときに笑顔で頼むのは当たりまえのことです。
人として当然です。
怒った顔で人に物は頼まないですね。
なるべく笑顔で言ったほうが応じてくれるものです。
でも必要以上に、それも卑屈な笑い、「どうせダメだよね」という笑いは、
むしろ「断ってください」
「どうせ私なんか」
というメッセージを相手に送ってしまいます。
相手にどう扱われてもいいという、弱い犬の腹見せのようなものです。
人が話しかけてくるとかならず文句だと思ってしまう
これも上とまったくおなじ。
親がいつも文句しか言わなかったから。
あなたを褒めることなど万が一にもありません。
おじさんは100点取って当たりまえ。
90点だと怒られました。
親は満足しているときは何も言いません。
まあ満足することなどほとんどありませんが。
だからあなたが親の思う通りに動かないときだけあなたに口を利きます。
あなたの親は口を開けば、あなたに不平・不満・文句を言い、つねにあなたを否定し蔑みます。
だから家から外に出ても、親から離れても、人が話しかけてくると「文句を言われる」と思ってしまいます。
人が待っていると罪悪感を覚える
次の項とも共通するところがありますが、ひとえに親があなたをいつも急かしていたからです。
急げ!
早くしろ!
わたしを待たせるな!
おまえのせいで迷惑している。
クズ親がいつもあなたにそう言いつづけていたからです。
急いでなくてもせかせか動く
おじさんの母親が自分の子どもであるおじさんにつけた仇名は
「スローモー」「蛍光灯」です。
冗談ではありません。
名誉のために言っておきますが、おじさんはけっしてノロマではありません。
なぜなら、友だちにも、会社の同僚にも上司にも「遅い」と言われたことはないからです。
出かけるときに着替えが「親の期待する速度」でできないと
「早くしてよ」ではなくて
「何やってんのよ!さっさとしなさいよ」
と、人殺しでもしたかのように怒られました。
だから、人に何も言われなくても、人はいつも
「早くしろよ」
と思っているにちがいないと思って、せかせか動くんです。
習い性となるで、1人でいてもせかせか動きます。
1人なら何でもできるのに他人がいるとできない
これももうおわかりですね。
1人ならアクロバットも怖くないし、世界を旅することもできるのに、「人間」が相手となると呪いが発動するんです。
1人で旅行するとき、とくに海外では犯罪が多いので気を抜けません。
自分がこれからどこに行って、何をするかに集中しています。
また1人で考えて1人で決めるので、おじさんの行動にケチをつける人もいません。
しかしひとたび相手が人間となると、相手のことを最優先で考えてしまいます。
これは無意識です。
そして自分のことを100%忘れて蔑ろ (ないがしろ) にしてしまいます。
ないがしろは、無きが代。
自分を「無き物」にしてしまうんです。
「亡き者」といってもいいかもしれない。
せっかく世界に飛び出していったのに、その後がなくしぼんでしまったのは多分に「奴隷の道徳」に縛られていたからです。
手や声の震え
いわゆる書痙ですね。
脳などの障害もありますが「人前で」にかぎる場合は多分に精神的な影響が大きいです。
味噌汁をこぼすとメチャクチャ怒られた
これも説明するまでもない。
誰でも手がぶつかったり、滑ったりして、味噌汁をこぼすことはあります。
うちはスープだとか言わないように
そんなとき親はメチャクチャ怒ります。
そりゃもう人殺しでもしたかのように。
このフレーズよくつかいますが、ほんとに夜叉のような顔になって喚き散らします。
夜叉の顔見たことないけど
念写ができるならみなさんに見せてあげたい。
ぜったい夜、寝られなくなります。
これについては趣旨がすこし変わるので別の記事に書きます。
自分は何もできないダメな人間だと思っている
あなたが自分で自分をそう思っているのではありません。
もう答えはおわかりですね。
そう。
あなたのクズ親が、あなたが生まれた瞬間から、物心つく前から、1年365日、1日24時間来る日も来る日も、朝から晩まで、夢にまで現れてきて、あなたのことを、
「おまえは何もできない」
「おまえはダメなやつだ」
と言いつづけてきたからにほかなりません。
クズ親の優越感 (劣等感) の道具
おまえは何もできない、ダメだ、といつも言いつづけたのは、それによって「相対的に」親は有能であるかのように子どもに思わせ、いちばんの狙いは自分 (親) 自身が自分を有能だと思いたいからです。
そのくせノーベル賞を取る学者か、総理大臣になるべきだと思っている。
ほんとに頭がおかしい人たちです。
優越感とは劣等感の裏返しでしかない。
ほんとに自信がある人は他人と自分を比べて自分のほうが上だとか下だとかいうくだらないことをしない。
ほんとに自信がある人は他人と比較しなくても自信がある。
また親は子どもに「ダメ人間」と思いこませることで、親を尊敬するとともに、親に依存するように仕向けています。
「親がいないと生きていけない」と思わせるのです。
ほんとに依存しているのは、じつは親のほうなんだけど。
親が子どもに依存しているんです。
じつは子どもが親から離れると、親のほうが生きていけない
親は子どもに寄生する寄生虫だから。
失敗の経験?
親にダメだと言われたからだけではなく、現実には失敗することもあるじゃないか?
親に言われたのではなくて自分の失敗の経験からそう思うようになったのでしょうか?
じゃあ伺いますが、あなたはそれを「なぜ失敗だ」と思ったのですか?
それはあなたの価値観や判断基準ですか?
ちがいますよね。
それはあなたの考えではなく、親の基準です。
スーパーで買い物をしてお金を払おうとしたら財布がないことに気がついたとか、お金を払って店を出て家に帰ったら買ったものをスーパーに置いてきたとか、バナナの皮で滑って転んだとか、それ自体が失敗なのではなく、「それが失敗だと定義するか?」ということです。


おじさんはテストで90点取っても「ダメだ」と言われました。
客観的にいって90点は、とてもいい点数です。
もっというとクラスでほかに90点以上取った人はいなくて、おじさんがクラスで最高点でした。
それでも親は「ダメだ」といいます。
おじさんはオールAやオール5が当たりまえでした。
それでも自分がダメだと思っていました。
たまにBや4があると、とても悪い成績だと思いました。
いえいえ、おじさんがそう思ったのではなく親がそう言ったんですね。
そして、おじさんもそう思わされたんです。

まったく自慢ではありません。
うれしくありません。
あなたが「ダメだ」「失敗だ」と思うものも、他人から見れば及第点、平均点どころか、じっさいにはむしろ「上出来」「大成功」と評価されることさえあるのです。
たとえ褒められてもダメだと思う
いやはやクズ親の仕打ちはほんとにひどいです。
90点でダメだと洗脳されてしまったあなたは、いくら他人に褒められても自分では自分を認められません。
「いや、そんなことないよ」
というのはあなたの場合、謙遜ではなくて、ほんとうにそう思っています。
繰りかえしますが、ほんとうにそう思っているというより、親にそう思いこまされています。
あなたの親はかりに満点の100点を取っても、さらに字が汚いとか、文章が整っていないとか、これで安心しないでもっと頑張れとかいって、あなたを貶して、けっして褒めることはありません。
あなたの親はけっして満足することはありません。
いつも不満です。
それはあなただけに対してでなく、世の中すべての人に対してです。
だから、あなたもふくめて、自分の親 (あなたの祖父母) 、自分の兄弟 (あなたのおじ、おば) 、親類縁者、隣近所、世間の人すべてに不満を持ち、軽蔑し、いつも悪口を言っています。
自分だけが清廉潔白で賢く、自分が世の中でいちばん苦労していると思っています。
ただほかの人たちには直接、文句が言えません。
かりに言っても相手にしてくれません。
だから唯一、立場上弱い自分の子どもであるあなたに不満のすべてをぶつけます。
でもこの不満の正体はあなたや世間の人たちに対するものではなく、じつはクズ親自身に対する不満です。
ほんとは心の底で自分の嘘に気づいています。
それに気づきそうになると、あなたを殴ります。
あなたを殴ることで必死に自分の嘘から逃げようとしています。
自信がない
何をしても、しなくても、ダメだと言われ殴られる。
だから客観的にすごいことで、他人が本心からあなたを褒めてもダメだと思う。
そりゃ自信があるわけないでしょ。
でもここにはもう1つの理由があります。
自信とは「自分を信用すること」
自信というとたいていの人は何か「他人には真似できない特殊能力」があることだと思っています。
わたしは
「人より」速く走れるとか、
「人より」漢字をたくさん知っているとか、
「人より」体力があるとか、
「人より」車の運転がうまいとか、
人と比較して「テストで」高い点をもらえることだと思っています。
人と比較して、他人がつくった評価基準で点数が高ければ「自信が持てる」ようになるにちがいないと思いこんでいます。
自分は人と比較して、走るのも遅いし、頭も良くないから、自信がないと思いがちです。
でもあなたが自信がないほんとうの理由は別にあります。
自分に嘘をついているから
もちろんあなたはそうしたくてそうしているのではありません。
クズ親に虐げられ、親を憎んでいる。
でも親を憎むと「罪悪感」が生まれるようにプログラムされている。
また「人を憎む」のは「道徳的に悪いこと」だとたくみに矛先をすりかえて、あなたが (親に対して) 「憎しみ」を抱かないように調教されている。
それでも「憎しみ」は生まれる。
あなたは「罪悪感」を覚え苦しみ、自分自身を憎む。
ほんとは親に対する憎しみです。
でもまだ自分を憎むほうが「罪悪感」を減らすことができるような気がする。
当然、あなたは「親を憎んでいること」も「自分自身を憎んでいること」も不快な感情なので隠そうとします。
なかったことにしようとします。
でも「憎しみ」の感情は消えることがないので、心の奥底にしまいこんでフタをします。
しかしこの「憎しみ」は心の奥底の部屋で内側からフタをドンドン叩きつづけます。
そのたびにあなたは胸が苦しくなり、さらにフタをしっかり押さえつけようとします。
あなたは嘘をついています。
いや嘘をつかされています。
クズ親に。
あなたは嘘つきが好きですか?
NOですよね。
あなたは嘘つきが信用できますか?
NO
あなたはどんな人を「信用」しますか?
嘘をつかない人です。
正直な人です。
誠実な人です。
頭がいいとか、スポーツができるとか、仕事ができるとかそんなことはどうでもいい。
あなたが信用する人間は、「正直で嘘をつかない人」です。
あなたは?
嘘をついていますね。
自分に対してだけでなく、他人にも「憎しみ」などのマイナスの感情を隠して自分は「幸せで」「他人に好意だけ持っている」ふりをしています。
あなたはそのことに気づいています。
だから、嘘つきである自分自身を「信用できない」のです。
それが「自信がない」という気持ちです。
あなたの知識や、運動能力は関係ないんです。
かりにテストで100点を取っても、かけっこでいちばんになっても、自信が持てません。
嘘つきだから信用できないだけ。
もちろん悪いのはあなたではありません。
ここでまた自分を責めないでください。
あなたを牢獄に閉じこめて長年にわたり洗脳してきたのはクズ親です。
あなたは自分の中にある「親に対する憎しみ」を認め、その理由は何か?を知ることで自分を「信用できる」ようになります。
「親に対する憎しみ」の理由はカンタンです。
あなたを1人の人間として扱わずサンドバッグ代わりにして肉体的にも精神的にも日常的に暴力をふるい、さらにそれを心置きなく利用できるようにあなたに「罪悪感」を植えつけたからです。
あなたは親に対する憎しみを持つのは「当然」だし、隠す必要もありません。
声高に世間に申し立てる必要もないけど、何かのときに親のことを聞かれたら「やさしい親ですよ」などと言わず (嘘をつかず) にほんとのことを言いましょう。
あまり興奮せずに穏やかにありのままを。
嘘をついてはいけません。
まあ自分に関わりが深くない人には細かく言う必要もありませんが、近い人だったらむしろほんとのことを言うべきです。
「親のことを悪く言うなんて」とまたあなたをたしなめようとする人も多いでしょう。
その人たちは、よほどやさしい、ふつうの親に育てられた幸せ者か、場合によってはあなたと同じ側の人間で、その人も嘘をつきつづけているのでその嘘が暴露されることを恐れてあなたの口を封じようとしていることもあります。
烈火の如く怒る人こそ、あなたと同じ側の人間で自分の嘘に気づきたくない、気づかれたくない人である可能性が高いです。
あるいは自分の子どもを奴隷として扱ってきた張本人です。
性格は生まれ持ったものではなく、親に植えつけられたもの
一卵性双生児でも成長すると、体型も性格も、好みも変わります。
片方は学者に、片方は芸術家になることもあります。
だから、遺伝子の情報は大きな部分を占めるけどすべてではないのです。
では体型はもちろん、人格や性格や好みまで変わっていく要因はなんでしょう。
それは環境と、おもに「どんな人と出会い、どんな関わりがあるか?」です。
双子であっても、幼稚園、学校に通いはじめると、出会う先生やクラスメイトが変わります。
この影響がどれだけ大きいことか。
おじさんは双子ではありませんが、先生の影響を強く感じた事件があります。
おじさんはもともと絵を書くのが好きでしたが、中学の美術で5段階評価で2をつけられてから絵を書くのが嫌いになりました。
そんなもんです。
あなたは奴隷として生まれてきたわけではありません。
でも奴隷になったのは、クズ親にそのように調教されたからです。
遺伝子がそうしているのではありません。
否定的・厭世的な考えかた
現在では、ネガティブ・ペシミスティックといったほうがいいのでしょうか
日本語危うし。
人はみんな自分に文句を言ってる。
自分はいつも他人に迷惑になっている。
自分はダメな人間だ。
あなたはいつもそう思っています。
これも自信がないのも上に書いたように、生まれ持った性格でありません。
クズ親が1年365日1日24時間、あなたに文句を言いつづけ、あなたのことを悪人だと言い、ダメだダメだと言っていたからです。
1日24時間?
そうです。
寝ても夢の中に出てきて、あなたを罵ります。
夢の中でもあなたを殴ります。
悪夢の中で叫んだり、布団を蹴って目が醒めることもあります。
起きると心臓がドキドキ言ってます。
平たい言葉で言えば「洗脳」「マインド・コントロール」ですね。
自我が確立した大人とちがい、子どもを洗脳するのはカンタンです。
子どもは真っ白な紙。
何色にも染まります。
何でも好きな言葉が書けます。
そしてひとたび言葉や色で埋め尽くされると、それを消して塗りかえるのはなかなか大変です。
つねに自分のほんとうの気持ちや心の動きにやさしく温かな目を向け、「本当のあなた」を意識する必要があります。
それはあなたの性格ではない!
あなたの性格は生まれ持ったものではなく、親に植えつけられたものです。
あなたが自分の性格だと思っていることや、自分のほとんどの考えかた、価値観、言葉、行動パターンはクズ親に植えつけられたものです。
それを理解して、つぎに進みましょう。
第3章 苦の原因を取り除く方法と実践
さあいちばん大事なのはここからです。
原因はわかったのでそこから脱却する方法を知り、実践しましょう。
読んだだけではダメです。
かならず実践すること。
親に植えつけられた奴隷の道徳とそれに基づいて、どのように感じたり行動したりするのがわかれば、答えはわかったようなものです。
クズ親は「自分自身のためにあなたを奴隷にした」「八つ当たりの対象としてあなたを物言わぬサンドバッグに仕立て上げた」
だからクズ親があなたに植えつけたものは「まちがいである」「親の自己満足・我儘を満たすためだけのもの」ということを理解して、それを投げ捨てましょう。
親に投げ返してやりましょう。
残念ながらあなたの親は最低のクズで、鬼だったということを認めましょう。
それを認めないと先に進めません。
自分の人生を取りもどすことができません。
三つ子の魂百までというように幼いころから洗脳され、調教され、何十年もそのように行動してきたことを変えるのはとてもむずかしいことです。
無意識に行動するとむかしの奴隷の道徳プログラムで動いています。
1日24時間、1年365日、それこそ寝ているときでさえ意識していないと元にもどってしまいます。
やること。よく観察し気づくべきこと
自分がかってに決めたルールを破れ
あなたは、いえこの世のすべての人は、法律を守り、人の道を外れなければ何をしてもかまいません。
たぶんあなたは法律にもふつうの道徳にもない厳しいルールを自分に課しているのではありませんか?
それはほんとはあなたが決めたルールではなく、99%親が決めたルールです。
まず、他人とまったく関わりのない自分自身のくだらないルールから破りましょう。
たとえば、朝起きたらかならず歯を磨かなければいけないとか、朝はかならず何時に起きなければいけないとか、食べものはかならず30回噛んでから飲みこむというようなルールです。
これは守らなくても、もちろん誰にも迷惑や危害は加わりません。
また無意識にやっているルーチンも意識してあえていつもと違うことをしてみます。
この際、効率などということも考えません。
これもまた強迫観念の1つですべてのことは意味があって、ムダがあってはいけないという考えかたをやめます。
ほとんどのことは意味はなく、ムダというものもないんです。
ムダでないというのは価値があるということではなく、そもそも価値があるとかムダとかいう考えかた自体がまちがいです。
意味や価値がないと生きられないという考えかたがおかしいんです。
意味も価値もなくても、人は生きていいんです。
ほかの生物が意味や価値を考えて生きていますか?
聞いたことないけど、や
が意味や価値を考えて生きていると思いますか?
それを考えないことは悪いことだとか、愚かなことだとか思いますか?
植物はどうですか?
花は自分の存在意義を噛み締めながら咲いていますか?
子孫を残すぞ!と使命感に燃えて咲いていますか?
使命感や意味がなければ花は咲いてはいけませんか?
や
や
を人間
に比べて劣っていると思いますか?
くだらないことを考えて悩み、苦しみ、傷つき、人と争う人間のほうがおじさんは愚かだと思います。
話がそれた。
たとえばいつも靴を右足から履いているなら左足から履いてみる。
歯磨きを左手でやってみる。
これはべつに左利きになるための訓練ではありません。
休みの日なら昼まででも寝てみる。
いつもそういう生活なら、逆に朝4時ころトイレに行きたくなって目が覚めたときに布団にもどらずそのまま起きてみる。
いつも何気なく無意識にやっていることを意識化するための手段です。
いつもとちがう道を通ってみる。
いつもとちがうものを食べてみる。
いつもとちがう店にはいってみる。
特別お金がかかるわけではなく、時間や労力がかかるものでもありません。
これは練習です。
訓練です。
親の呪いを解くための訓練です。
自分だけで完結することで、金科玉条のように守っているけど意味のないものを破り、プログラムどおりに自動的に動くのではなく、そのつど考えて、感じて行動できるようになれば一歩前進です。
悪く言えば気まぐれだけど、よく言えば臨機応変です。
あなたは生産ロボットではありません。
いつもおなじ反応をして、おなじように動く必要はありません。
プログラムどおりに動いているならあなたは人間ではなく、ロボットやアンドロイドです。
他人との関わりで自分で決めたルールを破れ
自分自身で完結することで、そのつどちがう反応をして、ちがう行動が取れるようになったら、今度は他人との関わりで実行しましょう。
ただランダムに反応するんじゃないですよ。
それではほんとに気まぐれな、一貫性のないただの変な人になってしまいます。
他人との関わりはもっと複雑で、おなじ相手でおなじような状況でもまったくおなじということはありません。
いつも、いろんな状況や条件が変わってくるので、それに応じてあなたもちがう反応をしてちがう行動を選択します。
念のために法律と人道に外れない範囲で。
ただ、あなたはずっと他人に100%譲り、他人の要求だけを読み取りそれに応えるように行動してきたので、少々踏み外したと思うくらいでも他人から見たらフツーです。
他人の言動に無条件に反応しない
まず罪悪感以前にあなたは「無意識に」「無条件に」クズ親の言ったとおりに行動するようにプログラムされています。
あなたは人が言ったことを自分で考えることもなく鵜呑みにしてしまいます。
いいことも悪いことも。
また人に何かを言われたら罪悪感以前に、あなたは「無意識に」「無条件に」「即座に」その通りに動いてしまいます。
そこに
「それはいいことだ / 悪いことだ」とか
「それはやるべきことだ / やる必要ないことだ / やるべきでない」とか
「自分はそれに賛成か / 反対か」とか
「それは自分の仕事か?」などという
判断や取捨選択が一切ありません。
ある意味、何も考えずに人が言ったとおりにしていれば楽ということもあるかもしれません。
でも、それがあなたの本意でなければ、あとでかならず不快感や後悔の念、さらには相手に対する隠された憎しみが生まれます。
すぐ答えず、すぐ動かず、すこし考える
無条件に反応するのをやめて、人から何かしら「働きかけ (言葉や行動や態度) 」があったときに、ちょっと「考える時間」を持ちましょう。
人はほぼ100%自分の利益のためだけに言葉を発し行動する
誰もあなたのことなんか考えていません。
みんな自分の欲望・欲求を満たすために言葉を発し行動しています。
人は「利己主義」なもんです
それは当たりまえです。
人にかぎらず、生命は自分が「生き延びる」ことが第一義ですから。
自分を殺したり、犠牲にしたりする遺伝子はとっくに滅びています。
自分を大切にし、自分を第一にし、自分が生き延びるためなら他者の犠牲は厭わない「種」だけが生き残ってきました。
最後の食料を自分で食べず他人に譲る「種 (遺伝子) 」は滅びます。
火事のときに「お先にどうぞ」と言って、他人に譲り自分は後回しにする「種」は滅びます。
「お先にどうぞ」と人に譲るのがいいことだ、というのは、自分が他人を奴隷にして自分が利益を手にしたい人がつくった戯言です。
火災や事故などで自分を後回しにして他人を優先して自分は逃げ遅れて死んでしまう人が美談として語られますが、けっきょく生き残ったのは、人に譲られてそれを断ることもなく「あなたこそお先に」と言わずに遠慮なくいただいた人たちです。
自分から進んで人を押しのけたわけではないけど、けっきょく自分を「最優先」した人です。
たまに「財布落としましたよ」と、ほんとにあなたのために言葉を発する人もいますが、おじさんは前の人が物を落としてもおじさん以外は誰も反応せずに通り過ぎるのを何度も見ています
人は勝手なことを言うもんだ
2500年前にブッダは看破しています。
いやはや2500年前のインドもいまの日本となんら変わりないんですね。
人はほぼ100%自分のためだけに言葉を発するので、それにあなたがいちいち反応したり答えたりする必要はありません。
他人に譲って、親切にして不快になるなら本意ではない
他人にやさしくしたつもり。
他人に自分のものや権利を譲り、親切にしたはずなのになぜかモヤモヤする。
人間として、人道的にいいことをしたはずなのに、気持ちよくない。
それどころか不快な気持ちになる。
ほんとうは譲りたくなかった。やりたくなかったから
あなたが本心から他人に善意を施したなら不快になるはずがない。
自分がやろうと思ったことをやったのだから気持ちいいはず。
それにもかかわらず不快になるということは、本意ではないということです。
まず、そのことを理解すべし。
あなたは「人に (親に) 親切にしなさい」という親のプログラムにしたがって「動かされた」だけです。
あなたは人間として自分で感じ、自分で考え、自分で判断して、自分の意志で動いたのではありません。
あなたはほんとうは「それ」を他人に譲りたくなかった。
自分のものにしたかった。
あなたにも他人とおなじように権利があった。
というより、そもそもそれはあなたのものだったかもしれません。
それを自分の本心に逆らって他人に譲り渡してしまったのだから、気持ちいいはずがありません。
不愉快です。
あなたは自分の意志ではなく親の呪いによって他人に譲ってしまっただけです。
あなたは他人とおなじように自分も欲しかったものを自分の本意に反して人に譲ってしまったので、「譲った」のではなく「盗られた」という気持ちさえあります。
自分の好意で自発的にしたのではなく、相手に脅迫されて「盗られた」という感じです。
じっさいに脅迫的で威圧的な態度で圧力をかけてくる人もいますが、そうでなくてもあなたは「親」に脅迫されて「脅し取られた」のです。
ここでも防衛機制が悪い方向に働きます。
クズ親に脅されて無理やり「譲らされた」と思うと不愉快なので、人に言われたからではなく「自分で考えて自分から進んで自分の好意でそうした」とすりかえてしまいます。
一見、心を守ったかのように見えるけど、じつは「譲らされた」という思いは消えたわけではなく心の奥底であなたをチクチクと刺激しつづけます。
あなたは表面的には本意を隠してしまったので「なんだかわからない不快感」をずっと感じることになります。
もちろん、あなたはそのことに気づいていません。
無意識です。
なぜなら自動実行プログラムだから。
でも、隠れた本心があなたに「不快」という信号を送ります。
あなたはそれがなぜだかわかりません。
今までは。
快、不快という気持ちが本心を解くカギ
とくに「不快」という信号を受け取ったときは流さないで、自分の本心をよく見つめましょう。
今までは親の呪いで見ないように調教されてきたのでわからなかったけど、今のあなたにはわかります。
関東の1つ残し、関西の遠慮の塊を食べる
これはかなり上級編です。
まだムリしてやらなくてもいいけど書いときます。
「誰のものでもない、みんなに平等に権利がある」 (これがとても重要です) お皿に盛ったお菓子。
もちろんあなたもほかの人と同じように食べる権利があります。
あなたが特別でもないし、他人が特別でもありません。
みんな同じ。
あなたもみんなと同じ。
ここがとても大事です。
お皿に最後の1コが残ります。
じっさいには10コ食べた人がいても、5コしか食べてない人がその最後の1コを食べると、ワアワア言うやつがいます
「最後の1コ」には特別な意味があるんですね。
いや、ほんとはないですよ。
それを食べてみましょう。
かならず「ああ、わたしも食べたかったのに」という人がいます。
でも気にしません。
じつはこのセリフを言うやつがいちばんたくさん食べてたりします
中には「ああ、わたしは1コも食べてなかったのに」という人もいます。
1コも食べなかったということは、この人はそれほど食べたくはなかったということです。
なにごとも程々に。
かならずいつも食べるのではなく、手を出す人がいなさそうだな、と思ったら食べてしまいましょう。
かならずケチをつける人がいるのは承知の上です。
そしたらこう言いましょう。
「じゃあもっと早く食べればよかったのに」
あるいはただにっこりして
「ああ、おいしかった」
でもいいです。
まだ口の中にあったら口を開けて「食べる?」と言ってもいいです。
あなたを生涯恨みつづけ嫌がらせをする人はいないと思います。
もしいたらよほどの変人で、あなただけではなく誰からも嫌われる人です。
もしほんとにいたらその人とは今すぐ縁を切りましょう。
最後の1つということでは、団体競技でもありますね。
最後の1点で試合に負けてしまったときにその人が責められる傾向にあるけど、試合の前半で2点取られた人はなぜか責められません。
だからほんとは最後の1つには特別な意味はありません。
文句があるなら、最初にたくさん食べたやつ、前半で2点取られたやつに言えよ。
罪悪感という釘を取り去る
あなたの親はあなたをコントロールするために「罪悪感」を植えつけました。
あなたが、あなた自身の欲求を感じると「罪悪感」を覚えるように親はあなたの心に釘を刺しました。
だから、あなたは「ほんとは自分が欲しかった」と感じること、そしてそれに気づこうとすると罪悪感を覚えます。
これがあなたの背中にずっと刺さっている毒矢です。
あなたも他人とおなじように正当な権利がある
あなたが他人に親切にするように、自分にも親切にしてあげてください。
なぜ、他人には親切にして、自分は粗末にするんですか?
それは親の呪いです。
あなたも「欲しい」と思っていいし、誰のものでもなければあなたにもそれを得る権利があります。
もちろん他人にもあるけど、あなたにもまったくおなじようにあります。
あなたがそれを「欲しい」と思って、自分のものにしても罪悪感を覚える必要などどこにもありません。
自分だと思わず、自分も他人のうちの1人と認識する
自分のためだと思うと罪悪感や苦痛を覚えてしまうなら、自分を他人だと思いなさい。
あなたは特別な人間ではありません。
その他大勢の1人にすぎません。
他の人たちと何も変わりません。
あなただけが特別に犠牲を負わなければならない存在なんてありえません。
それはクズ親が自己満足を得るためにあなたに与えた奴隷の道徳であり呪いであることを理解しましょう。
あなたはクズ親はもちろん誰の奴隷でもありません。
他の人とおなじように人間としての尊厳と権利を持っています。
それを持つことに罪悪感を覚える必要はありません。
あなたには他の人たちとおなじように正当な権利があります。
不快感の正体は憎しみ
あなたは自分で譲ったつもりだけど、ほんとは自分が欲しかった。
それを親の呪いによって自分の意志に関係なく他人に譲り渡してしまった。
あなたは気づいていないけど、譲ったのではなく「取られた」と感じているんです。
でも、「欲しい」と思うこと、「自分のものにすること」、さらに自分のものを「奪った」相手に「憎しみ」を感じることに罪悪感を覚えるようにプログラムされているので、自分の欲求や憎しみといった感情をなきものにしようとします。
無意識です。
だから、なぜかわからないけど、なんとなくモヤモヤする、不愉快だ、他人に親切にしたはずなのに、その相手に対してよくわからない嫌悪感を抱く。
そんな自分を責める。
こういう構図になっています。
あなたは他人とおなじように「欲しい」と思ってもいいし、手にしてもいいし、他人に取られたら「くやしい」と思ってもいいんです。
他の人とおなじように。
それに対して罪悪感など抱く必要はまったくありません。
人に親切にすることじたいは悪いことではない
人に親切にしたり、やさしくしたりするのも、けっきょくはそのことで他人があなたのことを「いい人」だと思い、あなたにも親切を返してくれるという打算があります。
この打算も悪いことではありません。
でも、あなたは自分をすべて捨ててしまっているので、それは親切ではなく、ただの奴隷の行動になってしまっているんです。
他人はあなたを「いい人」ではなく「都合のいい人」としか思いません。
いや人とも思ってないでしょう。
便利な道具。しかも使い捨て。
あなたは要求すれば何でもやってくれる。
あなたが持っているものは何でもくれる。
そう思っているだけです。
他人に親切にするときはよく考えてください。
無意識に自動的にしないように。
あなたは本心からそれをしたいと思っているか?
あなたが他人に譲ろうとしているものは、あなたには必要ないのか?
あなたはそれが欲しくないのか?
あなたはそれが惜しくないのか?
他人に譲り渡してしまって後悔しないか?
自分で譲ったくせに、あとで相手に対して恨みや憎しみを感じるようならやめましょう。
それは親切ではありません。
あなたは欲しい物を手に取り、他人に嫌悪感をいだかないほうがいいと思いませんか?
あなたが正当な権利を行使して、正当に欲しい物を手に入れ、満足してやさしく和やかな気持ちでいられるなら、ほんとの意味での親切をまた他人にすることができます。
人のものを横取りするんじゃないですよ。
皿に盛られたお菓子のように誰が手にしてもいいものです。
みんなに、もちろんあなたにも平等に権利があるものです。
今までは親の呪いで無意識に自動的にやっていたけど、自分の言動をよく注意して観察しましょう。
それは冷たい監視の目ではなく、やさしく温かい目です。
冷たい監視の目というのは、あなたの親があなたに向けていた目です。
すべて親の欲求を満たすために行動するように、そうしなければ罪悪感を覚えるように仕向けた親の目です。
今まで自分を見ていたと思っていたのは、自分自身ではなく、冷たい親の目だったんです。
それを、親から離れても監視カメラのごとく自分に向けてきた。
自分がしゃべったり、行動したりするときに、判断の基準になっていたのは親の冷たい目であり「親の欲求・要求を叶えること」でした。
それをあなた自身の目に切りかえましょう。
あなた自身の目というのは、
「あなたがほんとにやりたいと思っていること」
「あなたがほんとに感じている気持ち」
「あなた自身の欲求や要求」
などです。
親の目から、あなた自身の目に切りかえることであなたの言動は今までとは変わってきます。
自分の人生を取りもどすことができます。
自分のせいにするな!
他人のせいにするな、という御託は掃いて捨てるほどあるのでそちらにお任せします
「人のせいにしていて自分で何も行動しなければ何も変わらないよ」というのがごもっともな意見です。
しかしあなたの場合は事情がちがいます。
あなたは奴隷として調教されてきたので、事実を客観的に捉えて判断することなく「無条件で」いつもかならず自分が悪いと思うようにしつけられてきました。
問題はここです。
事実を見ないで、自分で判断することもなく「無条件で」自分を悪者にしてしまう無意識の行動、というより埋めこまれたプログラムといったほうがいいです。
じつは「いっさい何も考えずに」いつも無条件で自分を悪者にしてしまうのはカンタンなんです。
だって何も考えなくていいから。
そして人と争わなくてもいい。
あなたは自分が後ろに下がって丸く収めたつもりかもしれませんが、これはけっして平和的解決ではありません。
なぜならあなたは無意識に無条件にそれをやっていて、いつどこで何をしてもあなたはつねに「悪人」になっています。
もちろんじっさいに悪人なのではなく、あなたが自分で自分に「悪人」というレッテルを貼ってしまうのです。
いえいえ、そのレッテルはクズ親があなたに貼りつけたものなんだけど。
あなたはどんなに努力しても人に親切にしても「悪人」になってしまいます。
おかしくないですか?
おかしいです。
それはクズ親があなたに植えつけた奴隷の道徳だからです。
さらにあなたは自分を悪者にしたはずなのに、親に植えつけられた無意識、無条件のプログラムでそのように行動しているだけなので、心の奥底のほんとの自分は「相手に敵意や憎しみ」を持っています。
それが本心です。
それは悪いことではありません。
それがほんとうのあなたで、あなたにまったく非がないのにもかかわらず、いや、それどころかあなたがまったくの被害者であっても、相手が正しく自分がまちがっているという評価を下すことがおかしいんです。
繰りかえしますが、あなたは評価していません。
クズ親によって無条件に自分を悪者と決めつけています。
いまのあなたは、人と対立したら「相手が悪い。自分は悪くない」と思うくらいでもちょうどいいかもしれません。
逆の立場だったら?
相手が悪いのか、じっさい自分が悪いのか?
無条件で自分を悪人にしないでちょっと考えてみてください。
その場では引き下がったとしても、あとで自分でよく考えてみてください。
こういうときは「逆の立場だったら?」と考えるとわかりやすいです。
相手が自分に言ったことや、したことを、もし自分が相手に言ったり、したりしたら、自分や相手はどう感じるでしょうか?
あるいは自分は相手とおなじことをするでしょうか?
自分がやるのも不愉快だし、された相手も不愉快に感じるだろうと思うなら、その相手がしたことは悪いことです。
もちろん善悪には絶対的な定義も基準もなく人それぞれですが、すくなくともあなたがつねに悪人であることはなくなります。
すくなくともあなたの価値観で、逆の立場だったとしてもそれは非道いことだと思うなら、それはあなたにとってはよくないことです。
それを相手はあなたにしたんです。
だからそういうときは、あなたは怒ってもいいし、相手に憎しみを抱いてもいいんです。
非道いやつだと思っていいんです。
それは人間としてふつうのことで、その感情に対して罪悪感を覚える必要はこれっぽっちもありませんを。
罪悪感は親に植えつけたプログラムと感情です。
人と何かトラブルがあったら
「自分のせいにするな!」
自分に何も非がないのにとりあえず謝っておくのもやめましょう。
自分も相手も、何かわからないけどあなたが悪かったという印象だけが残ってしまいます。
客観的に見るのはむずかしいので自分と相手を入れ替えたらどうなるか?
ちょっと考えてみてください。
何も言われてないのに言い訳するのをやめる
言い訳するな、もクズ親が自分の我儘を子どものあなたに押しつけるための道具でした。
それでもあなたはいつも親に責められていたので、必死で無実を訴えていました。
言い訳ではなく事実を伝えてわかってもらおうとしていただけです。
まあ、バカな親には日本語が通じなかったけど。
上の「自分のせいにするな!」にも、というかすべて奴隷の道徳によるものですが、何も言われてないのに言い訳するのをやめましょう。
人がいつも自分に不満を持って要求していると思うのをやめましょう。
あなたのクズ親があなたにいつも不満を持って要求していただけで、世間のふつうの人はあなたの親とはちがいます。
ほとんどの人はあなたに関心がありません。
また、あなたが何を言ってもしてもかならず不満に思ったり、文句を言うやつもいます。
でもそれはあなたにかぎったことではなく、世の中のすべての人はかならず何かに誰かしらに不満を持っています。
すべてに満足している人などいません。
だから何も言われてないのに自分から言い訳するのをやめましょう。
あなたは言い訳してるつもりだけど、その行動は「自分はいつも悪いことをしている」という思いこみを定着させています。
ほとんどの人は自分のことを何とも思っていない。
不満に思う人もいるけど、あなたは誰の奴隷でもないのでその人のご機嫌取りをする必要はまったくないということです。
じっさいに文句を言われたときは、
通りすがりのどこの誰かわからない人なら無視。
会社や家族などまいにち顔を合わせて関わらなければならない人なら、最初は軽く受け流して、しつこく何度も言うようなら毅然とした態度で、ピシャリと言ってやりましょう。
近くにいて争いをしたくない人にこそ、しっかり自分の考え・意見・気持ちを伝えたほうがいいです。
そうしないと相手は図に乗って「あなたはかっこうの奴隷になる」と判断してあなたに依存してきます。
寄生虫のように。
がっかりされてもいい
これも罪悪感とともにクズ親がつかった呪いです。
クズ親があなたに「がっかりした」というのは「わたし (親) の思うとおりに動いてくれなかった」と言っているにすぎません。
「がっかりした」というのはクズ親が「自分 (親) の期待どおりに動いてくれなかった」という意味です。
「がっかりした」というのはクズ親が「 (親の) 自己満足、我儘を叶えてくれなかった」というだけのことです。
あなたはあなたの人格や能力、はたまた人間としての尊厳を否定されたように感じますが、それもクズ親があなたをコントロールするために植えつけたプログラムです。
これは大人になっても社会でよく使われるので注意してください。
あなたは誰にがっかりされても、何の問題もありません
あなたは誰かのご機嫌を取るためや、誰かの願いを叶えるために生きているのではありません。
あなたは誰の奴隷でもありません。
かってに期待してかってにがっかりするなよ!
「俺に何を期待してた?」
「あんたの我儘を聞いて、あんたの身勝手な欲望を叶えることか?」
まあ口に出さなくてもいいけど、心の中でこう唱えましょう。
こんな人には関わらないほうがいいです。
会社の上司などで関わらなければならないなら無視しましょう。
「がっかりした」といってもあなたが凹まないで飄々としていれば、上司もあなたには通用しないとわかってあまりつかわなくなります。
同僚なら「かってに期待するなよ。俺はあんたのご機嫌取りでも、世話係でもねえ」と言ってやってもいいです。
奴隷じゃないのであなたの会社の上司があまりにひどいなら、あなたはいつでも会社をやめていいです。
収入がなくなるのは困るけど、あなたの心が病んで体を壊したり、最悪自殺するようなら本末転倒です。
あなたは誰のために心や体を壊して、最悪死んでしまうんですか?
自殺は他人事ではありませんよ。
10~14歳で死因の第2位!
15~39歳でトップ。
64歳でも5位。
高齢になると自殺が減るわけではなくて、ガン、心臓、脳出血といったべつの死因が増えてくるからです。
コロナなんか屁でもない。
ワクチン打ったり、マスクしたり、アルコールで手を痛めつけたりする暇があったら、自殺しないように自分の心に注意して自分をいたわってください。
あなたは誰の奴隷でもありません。
あなたの心と体はあなた自身のものです。
ほかの誰のものでもありません。
自信を持つために
すでに第2章で書きましたが、まずあなたが自分をダメだと思うのはクズ親にそう言われつづけてきたからです。
あなた自身の判断ではありません。
クズ親は、あなたが何をしても、何もしなくてもかならず文句を言いました。
クズ親はけっして満足することがありません。
世の中にもそんな連中がウヨウヨしていますがほっときましょう。
それから、
自信とは「人よりすぐれた能力がある」ことではなく
「自分を信用できる」ということです。
もしあなたがノーベル賞を受賞しても、オリンピックで金メダルを取っても、自信がないのなら、それはあなたが「自分に嘘をついている」からにほかなりません。
まあ、そのような精神状態でノーベル賞や金メダルは取れないでしょうが
もう1度あなたが「信用できる人」はどんな人か考えてみてください。
ノーベル賞取る人ですか?
金メダル取る人ですか?
頭がいい人ですか?
体力がある人ですか?
足が速い人ですか?
ちがいますね。
「正直で誠実な人」
「嘘をつかない人」
です。
あなたが自分に自信がないのは、自分に嘘をついているから。
あなたが自分に正直になれば、自分に自信が持てる、つまり自分を信用・信頼できるようになります。
そのときあなたはテストで100点取るとか、100メートルを10秒台で走るとかいう能力はまったく必要ありません。
学校や会社で褒められたり表彰されたりすることも必要ありません。
正直になるというのは、自分の素行をすべて人に話すということではなく、自分の「気持ち」や「考え」を隠さず、粉飾せずにそのまま自分が認めて、それを人にも表すということです。
自分から声高に言う必要はありません。
自分は自分の正直な気持ちに基づいて行動して、もし人から何かしら問われれば、その気持ちや考えを正直に話す。
けっして相手がどんな答えを望んでいるか?を考えてはいけません。
それはクズ親に植えつけられた奴隷の道徳です。
かりにそれが悪意のある質問の形を取った要求だとわかっていても、あえてその意図は無視して自分に正直になります。
相手は「何だこいつ。わからないやつだな。まじで返しやがって。こっちは質問してるんじゃないんだよ」と思っても気にするどころか、むしろ好都合です。
なぜなら、ある意味「馬鹿正直」になることで、相手にはそんなひねくれた、こすっからい手段は通じないと教えることになるからです。
あなたが自分に正直であれば、あなたは何もしなくても、人に褒められなくても自信を持てます。
繰りかえしますが、あなたが嘘をついていれば百万人に褒められても、あなたは自信を持てません。
嘘つきだから。
正直であることは人と軋轢を生むこともあります。
ただあなたは自分に対して正直であればいいので、他人の欠点や、言動に対していちいち意見をすべきではありません。
何より他人に自分のエネルギーと時間を浪費するなんてもったいないじゃないですか。
大事なのは他人ではなく、あなた自身です。
あなたの正直な気持ちや考えや意見は他人と対立することもあるでしょう。
いえ。
すべての人と意見が合うことなどないのが現実です。
あなたが右に行けば、右に行くな。
あなたが左に行けば、左に行くな。
じっとしていれば、何かしろ。
という人がかならずいます。
あなたは何をしても、何もしなくてもかならず文句を言われます
すでに2500年前にブッダはそのことを言ってます。
人間はそういうものです。
だったらあなたの好きなようにしましょう。
自分が望まないことをして、さらに人からも文句を言われるなんて不愉快の極みではないですか。
世の中でたった1人でも、あなた自身は自分に満足し、自分を信用できる人間になりましょう。
また繰りかえしになりますが、百万人があなたを褒めてもあなたが自分を信用できなければ不幸です。
百万人があなたを貶しても、あなたが自分に満足できればこれ以上の幸せはありません。
自分を大切に
自分を粗末にしていたら自信など持てるはずがありません。
自分を他人とおなじように人間として丁重に扱い、尊敬の念を持ってやさしく接します。
誰も褒めてくれなくても、自分で自分を褒める。
自分にこう言います。
「よくやっている」
「よくやった」
そして自分に報酬を与えます。
おいしいものを食べたり、好きなことしたり、遊んだり、旅行に行ったりなんでもいいです。
あなたが常識とか社会通念とか経済的な理由などで、まるで苦行僧のように禁欲的に生きるのをやめて、あなたがやりたいことをやりましょう。
やらせてあげましょう。
そうすれば自分を1人の人間として受け入れ、認めて、大切に思える存在になるでしょう。
他人のご意向ではなく自分のご意向をよく見る
あなたは他人 (じつは親) の気持ちやご意向ばかり気にしてきました。
これからは自分の「ご意向」をよく見てください。
とくに他人といるときは、よくよく注意して
「自分の気持ち」
「自分はどうしたいのか?」
を考えてください。
人と関わるときは注意が必要です。
無意識に行動すると「他人のために」動き、自分を無視してしまいます。
いつも「自分は何が欲しいの?」「何がしたいの?」としつこく問うてください。
そのとき他人の意向とちがっても、自分の意向を優先してください。
自分を選んでください。
そのためにかりに他人に嫌われてもかまいません。
あなたがすることは他人に気に入られることではなく、自分自身が好きになることです。
人がすることより、自分が自分にすることがいちばん怖い
人にされることよりも、自分が自分にすることのほうがひどい!~ ブッダのつぶやき
2500年前にブッダは看破しています。
人からバカと罵られたり、殴られたりすることより、自分が自分を罵り、蔑むことがいちばん自分を傷つけます。
人にバカと言われても自分がバカだと思わなければ傷つきません。
反対に100万人から尊敬されても、あなた自身が自分はダメな人間だと思うと、あなたはけっして幸せにはなれません。
芸能界を見てください。
人気絶頂で仕事もある人がとつぜん自殺します。
あんなにみんなに気に入られていて、仕事もあるのになんで死ぬの?
わたしのほうが誰からも気に入られてないし、仕事もなくてお金もないのに。
そうです。
彼らは人からどんなに褒められても気に入られても、自分で自分が気に入らなかったんです。
だからあなたは、自分を大事にしてあげてください。
自分が自分を見捨てたらおしまいです。
どんなにまわりの人が「あなたはすごいね」「あなたのことが好きです」といっても、自分がそう思わなければあなたは不幸です。
反対に、100万人があなたのことをバカだと罵っても、あなたがあなた自身を好きであればこの世はハッピーです
あなたは自分がどう感じ、何をしたいのか、いつも注意深く観察してそのように行動してください。
クズ親の冷たい目ではなく、あなた自身の温かい目です。
かりにあなたが他人の言うとおりに動いてもその人はあなたにこれっぽっちも感謝しません。
都合のいいやつだと思うだけです。
そう思えばまだマシ。
あなたの存在さえ気づいていないかもしれません。
あなたは自分で自分を嫌わないように、あなたを大切にし、あなたの気持ちや考えを大事にしてそれに沿って生きてください。
そうすれば地位も名誉も大金もなくてもあなたは幸せです。
お金はすこしはあったほうがいいけど、たくさんはなくても大丈夫です。
ほとんどの人はあなたに興味なんかない
文句を言われると思ってしまう
みんながあなたに不満を持っていていつもあなたに文句を言うと思ってしまうのは、他でもないクズ親がいつもそう思いそうしてきたからです。
でもあなたの親はふつうの人ではありません。
頭がおかしいんです。
そして心は腐りきっている。
そんな変な人間に育てられてあなたの感覚もおかしくなってしまいましたが、あなたは少しも悪くありません。
クズ親が悪いんです。
みんな自分のことを責めていると感じてしまうけど、世の中のほとんどの人はフツーで特別いい人もいなければ特別悪い人もいない。
程度の問題で、すこしいい人もいれば、すこし悪い人もいるのが実情です。
しかし、あなたの親のような変人はそんなに多くありません。
だからほとんどの人はこの記事を読んでも何のことかさっぱりわからないでしょう。
その人たちはフツーで幸せな人たちです。
それから、世の中のほとんどの人は「あなたに興味がない」んです
あなたが思うほど他人はあなたのことなんか見ていません。
あなたが思うほど他人はあなたに期待していません。
みんな自分のことで忙しいからあなたになんか構っている時間はありません。
だからあなたに何か言おうとする人もいません。
かりに文句を言われても気にしない
中にはじっさいに文句を言う人もいるかもしれません。
これもべつに珍しいことでも驚くことでもありません。
みんな「自分の価値観で」それを正義だと思っています。
またふつうの人は「自分がいちばんかわいい」ので、自分が最大の利益を得られるように行動します。
その上であなたが邪魔であればあなたに文句を言うかもしれません。
でもそれは「そいつの我儘」です
あなたがそいつの我儘を聞いてやる必要はありません。
だってあなたはそいつの奴隷ではないのだから。
あなたはクズ親に「親の我儘を聞く」ように調教されたけど、クズの我儘を聞く必要はこれっぽっちもないし、親だけでなくあなたは他人の我儘につきあう必要はこれっぽっちもありません。
人はみんな自分勝手で自分の都合でしか物を言わないので、その我儘にあなたが合わせる必要はこれっぽっちもありません。
じゃあ代わりにあなたの希望をその人に言ったら、その人は100%あなたの希望に答えてくれますか?
否。
きっとこう言うでしょう。
「我儘言うんじゃない!」
おまえが言うな。
おまえにだけは言われたくない。
お互いさま
待つこともその1つです。
あなたは人を待たせていると思ってしまうかもしれないけど、あなたも待ってますよね。
ガソリンスタンドでもスーパーでもどこでも、あなたも列に並んで待ちます。
それなのに自分の順番が来たとたん後ろの人に気兼ねするなんておかしいです。
そう、それはおかしな親のせいです。
あなたの親はふつうじゃありません。
頭のおかしな人たちです。
おかしな人のおかしな考えです。
あなたも待ったんだから、自分の番が来たら誰にも気兼ねすることなく悠然と自分の権利を行使しましょう。
慌てふためいてせかせかと動く必要はありません。
もしあなたがそうしなければ気が済まないなら、あなたは他人にもそれを求めていることになります。
最近では死語になってしまったけど「お互いさま」です。
あなたがそのつもりでなくても他人に迷惑をかけてしまうことはあります。
生きてるかぎりそれは避けられません。
でも気にしないで。
お互いさまだから。
だから、あなたも他人に迷惑をかけられても気にしないで。
お互いさまだから。
あなたは他人よりとくべつ権利があるわけでもなく、とくべつ権利がないわけでもない。
ほかの人とおなじです。
他人の権利を認めるように、あなたの権利も認めてあげてください。
自分のものは自分のもの
自分の「もの」には、家や車のような物質で触れるものだけではありません。
目に見えて、触れるものは、わかりやすいです。
問題は、自分の気持ち、生命として生きる権利、客観的に見てとうぜん自分に権利があるものなどです。
人はけっして客観的に物を見ることはできないけど、自分の我儘かどうかを判断するには「逆の立場だったら?」を考えればわかりやすいです。
誰かがあなたの権利や、物を奪おうとしているときに、逆の立場だったら、あなたがもしその相手の誰かだったらおなじことをするだろうか?
それは当然の権利だと思うだろうか?
もし、あなたがしないと思ったらそれは「あなたの権利」と思っていいです。
これでも主観からは逃れられないけど、かなり客観に近づいています。
同様にあなたが何かを得ようとしているときに、もし「罪の意識」を感じたときも、他人だったらどうするか想像してみましょう。
フツーの他人だったらやるし、あなたがそれを見ていても不快にも感じないし、「当然だよねえ」と思うなら、あなたもそれをやっていいです。
庇を貸して母屋を取られる
人にやさしくすることはむずかしいです。
世の中いい人ばかりではないので、あなたを利用しようとする人もいます。
だからあなたは過剰に知らない人に親切にする必要はありません。
親切にすることは悪いことではないけど、繰りかえしたきたようにあなた自身のものを他人に譲り渡してはいけないし、ここから先は「立入禁止」区域をしっかり認識しましょう。
こちらの親切をいいことにズケズケはいってくる人には、毅然としてNO!と言います。
ここから先は「わたしの」領域だ。
はいってくるな!と。
これは悪いことではありません。
それはあなたに権利があります。
あなたのものです。
何より図々しく、ふてぶてしいやつのものではありません。
ジャイアンのようにあからさまに乱暴で我儘なやつはまだ安全です。
コソコソ図々しいやつには気をつけましょう。
見た目は穏やかでやさしそうで、こっそりあなたの物や権利を奪っていきます。
あなたのクズ親のように。
いやいや、クズ親は堂々と、傲慢に、強引にでしたね
ただそれを嘘の「美徳」や「常識」で塗り固めてあなたに気づかれないようにしていました。
自分の権利は主張する
自分のものは自分のもの
もともとあなたのものは、あなたのものです。
当たりまえ。
そして、あなたのものでなくても、すべての人に平等におなじ権利があるなら、あなたもそれを手にしていいということです。
ためらうことはありません。
恥じることもありません。
バーゲンセールがあったらあなたもそこに飛びこんで好きな商品をむしり取ってもいいんです。
おじさんは参加したくないですが
皿に残った最後の1コを食べてもいいです。
あなたは特別ではありません。
もちろんあなたが食べてもいいように、ほかの人が食べても文句を言わないように。
あなたのものではないが、他の人のものでもない
ブッダのフォロワーとしては欲はいいものではないし、所有するという概念も「苦」を生み出しますがそれはまた別の次元の話です。
ブッダ的には「自分のものなど何もない」
ただ、ここで気をつけることは、「他人の物も何もない」ということです。
あなただけが特別ではありません。
あなたのものでないものは、他人のものでもありません。
誰のものでもないものは、みんなのものです。
野に咲いてる花は、あなたが摘み取ってもいいし、他人が摘み取ってもいい。
あなたは他人のことをとやかく言わないし、あなたも他人にとやかく言われる筋合はない。
おじさんは摘み取らないで眺めていますが、これはあくまでたとえです
小さなことでも
脅迫的に人に「盗られた」感があるとします。
表面的にはあなたが譲ったんだけど、モヤモヤするパターンですね。
「これくらいならいいや」と考えてしまいがちです。
なるべくなら争いは避けたほうがいい。
それは動物界でもそう。
ムダな争いは「自分にとって損」だからです。
争ってケガするかもしれないし、最悪死ぬこともある。
それが死を賭けてまで自分のものにするほどの価値があるのか?ということを天秤にかけます。
何ごとも程々にで、守銭奴のようになるとこれはこれで疲れます。
だから、大したものではない。
人にやっても惜しくない。
また手にはいる。
そういったものは、やってしまいましょう。
ただ、あなたは長年、「無条件で」「何でも」人にやってしまう癖がついています。
クズ親に植えつけられた奴隷の道徳です。
だからすこし慎重になりましょう。
それこそ庇を貸して母屋を取られるにならないように、小さなことだからいいや、と思わずに、自動的に反応せずに、そのもの、相手、状況、いろんな物を加味して、たとえ小さなものでもここは「譲っていけない」と思ったらしっかり握りしめましょう。
即決できないなら譲らない
もし人に物を頼まれたときに、瞬時に何のためらいもなく「いいよ!」という返事ができるならそれはやっても問題ありません。
何かを譲ってほしいと言われたときに、すぐ「いいよ」と言えるなら問題ありません。
でも、一瞬でも「ためらい」があったらやめましょう。
それは
「譲りたくない」
「わたしのものだ」
「わたしが欲しい」
「わたしに権利がある」
というあなたの正直な気持ちの表れです。
それに対して罪悪感を覚える必要などこれっぽっちもありません。
考えはじめると、以前のように「人に譲り、自分を否定する屁理屈」を組み立ててしまいます。
一瞬でも「ん?」と思ったら、それは「NO!」というサインです。
もしかしたら相手はそれほど欲しいとは思ってなくて逆に「えっ、そんなら別に俺はなくてもいいんだけど」ということもあります。
努力が報われないのは奴隷の道徳のため
おじさんは以前、「努力は報われない」という記事を書きました。
じっさい報われないことのほうが多いです。
努力はムダと感じた瞬間 ~ この世は運が牛耳っている!そして不公平なもの!
ただ、奴隷の道徳の存在に今更ながら気づいて (遅っ!) 、努力した結果を手に入れるチャンスがあったのに、「無条件で他人に譲り渡していた」ことも多々あるということに気づきました (ほんとに遅っ!)
おじさんは努力してきたけど背中に矢が刺さったままでした。
親の呪いについては気づいていたんだけど、「すべて他人に譲り渡す」ということについては自覚していませんでした。
だから、努力してせっかくその結果が手にはいるというときに、他人に譲ってしまったり、「自分はこんなに幸せになるべき人間ではない」とばかり手放していたことに気づきました。
ゴール前にいて自分にボールが来たのにシュートせずに、かならず他の人にパスしてしまうんです。
これはたとえではなく、小学校でサッカー部にはいっていたんだけど、いちばん?熱心に練習していたにもかかわらず試合に出られなかった苦い経験があります。
無念としか言えません。
あのクズ親のもとに生まれなければ…
奴隷の道徳で失ったもの
もう取り返しがつきませんが60にもなって忘れられない大きな出来事が2つあります。
それは奴隷の道徳によるものなので、恥を忍んで書きましょう。
これを読んだ人は、自分が努力の結果や、そうでなくても舞い込んできた幸せを受け取るときに、「ためらわず」「遠慮せずに」受け取っていいのだと思ってそう行動するように祈ります
山岳滑翔
これは60になったけど死ぬまでにリベンジしたいです。
大学のとき、自分で資料を調べ、研究し、滑空場や宿泊場所などほとんどすべて自分1人で手配して実現したにもかかわらず自分が飛べなかったことです。
おじさんはすでに妻沼のふつうのサーマルで1時間×2で2時間の銅賞を持っていました。
サーマルで5時間はむずかしい。
それに山岳滑翔にも興味があった。
そこで長野の須坂というところで、何年も前にあったけどずっと行われてなかった山岳滑翔があったことを見つけ企画しました。
もちろん「自分が」5時間飛びたかったからです。
もちろん、がつづきますが、合宿は1人ではできません。
グライダーは1人では飛ばせません。
ウィンチマンも要るし、教官も要ります。
でも、企画して準備したのはほとんどおじさん1人です。
1人ではグライダーは飛ばせないのは、おじさんだけではなく、他の人もおなじです。
このことを忘れていました。
というか、奴隷の道徳で封印されていました。
他の人が山岳滑翔でやらなくてもいい、はっきりいってどうでもいい、ふだんの妻沼でできる30分とか、2時間滞空をして、おじさんの5時間トライのチャンスはなかなかやってきませんでした。
やっとチャンスが来たと思ったら思わぬ伏兵が!
教官の1人がまだ5時間飛んでないと言うので先にトライさせてくれと
聞いてないよ。
でも教官では断れないですよね。
断ったら、「誰のお陰で飛べてると思ってるんだ?」と言われてしまいます。
まあ、立場を利用した越権行為です。
初めから聞いていたならまだしも突然です。
まあ仕方ないな (これが奴隷の道徳)
まだ合宿は日程があるからチャンスは来るだろう。
そして次のチャンスが来ました。
そのときわたしは3年生。
4年のY先輩がもう1人5時間トライの候補でした。
しかし、この先輩?は合宿の準備を何もしていません。
ウィンチなどの陸送もおじさんがしました。
雪の碓氷峠。
割れた三角窓。
この先輩?はボンボンで黄色い自家用車でぶーっと来て、ただグライダーに乗ってるだけです。
ただ先輩?というだけ。
奴隷の道徳
さあ2人のどちらが乗るか?
このとき選択肢はあったんです!
教官は一応、おじさんの働きで今回の合宿が実現したことを理解していた?ようで、有無を言わさず先輩?を乗せたのではなく、「どっちが行く?」という問いかけをしました。
おじさんの心の声はこうです。
「この先輩?は何もしていない。自家用車で来て自家用車で帰るだけ。そもそも、この人が自分でやりたいと思うなら自分で企画したはず。今回の5時間トライはこの先輩?の努力は一切なく、たまたま転がってきた幸運にすぎない。それに対しておじさんは自分で飛びたいと思い、自分で資料を発掘し、研究して、先輩や教官に交渉して、須坂の長野市滑空場にインターネットもない時代に問い合わせして、滑走路を使用する許可をもらい、宿泊場所を確保し、貸ぶとんも手配し (まあ、我ながらよくやったことよ) 実現した。ふつうに考えればおじさんに権利があるだろう。客観的に考えてもそうだろう。だから、教官も聞いたのだろう。ふつうなら聞くまでもない。唯一の条件としてはYが1年上だということだけ」
自分が手にしない理由を作る
しかし奴隷の道徳にまったく気づいてなかったおじさんはこう考えました。
「自分は3年生だからまだ来年がある。でもYは4年生だから来年はない。この場合、自分は身を引いて相手に譲るべきか」
そしてそのとおりの言葉を言いました。
それに対してYは
「いや、これは〇〇くん (おじさんのこと) ががんばって実現した合宿だから〇〇くんが飛ぶべきだよ」などという高尚なことは言いませんでした。
そりゃそうです。
何も手伝いをせず、人が苦労して準備した合宿に自家用車で手ぶらで来る人だから
こうしてK教官と、Yが5時間飛び、合宿は終わりました。
おじさんは5時間トライに出られなかったどころか、山岳滑翔さえできませんでした。
5時間トライを予定していたので、1時間、2時間という短いフライトはさせてもらえず、夕方サーマルがなくなったころ中途半端な時間に20分だけとか飛んでました。
それから、日中やることがないので、山岳滑翔する山に「徒歩で」登って飛んでるグライダーを眺めていました。
とにかく悔しかったのは、5時間トライの条件がなかったのでもなく、自分の能力がなかったのでもなく、トライそのものができなかったことです。
じっさいにトライに出て、風がよくなかったり、自分の能力が足りなかったから5時間滞空できなかったのなら諦めもつくけど、そもそも飛ばしてもらえなかったのだから。
またこの合宿が、他人がお膳立てしたものではなく自分で用意したものだからです。
そして結果はわからないけど、あのとき教官が聞いたのだから、「おじさんは飛びたい。この合宿を実現に漕ぎ着けたのはみんなの協力もあるけど何よりおじさんがいたからだ。おじさんがいなければこの合宿はなかった。おじさんに飛ぶ権利がある」とだけ言いたかったです。
「自分に権利がある」ということは、それが認められるかどうかではなく、それを主張することに意味があります。
それは自分自身のためです。
それを言ったならそのあとが結果的にどうであろうとここまで後悔はしない。
来年はありませんでした
だから今でも悔しくてしかたないんです。
そしてその悔しさは教官やYに対してではなく、「わたしが乗りたくて計画して準備諸々したんだから、わたしに行かせてください」と言えなかった自分に対してです。
プールで好きな子に会ったのに
いやあこれも恥さらしですが、みなさんの参考になれば。
もう恥ずかしい年でもないし。
中学のとき好きな女の子がいました。
ふつうです
彼女はおそらく学校一の秀才です。
あっ、おじさんが彼女を好きになったのは勉強ができるからではありません。
けっきょく見た目かな?
そんな派手ではなく、むしろ控えめな感じです。
人を好きになる理由はいろいろあるけど、その人の立ち居振る舞いとか、しゃべりかたとか、反応の仕方なんかも大きな要素です。
いまでもフルネームで名前が書けます。
ここには書きません
結婚して名前も変わって、子どもも孫もいるんだろうな。
おじさんも結婚して子どもがいるので、それもどうでもいいです。
たまたま教室の右前のほうに席があって、彼女がときどきわたしのノートを覗き込みます。
教室の黒板は西側。
窓は南側で、できるだけ外から自然な光がはいるようにしてあり、右利きの人には左から光が当たったほうが手元が陰にならないようになっているんだけど、これだと黒板の左から光が当たります。
このことわかってないですね。
そうすると光が反射して右前の席の生徒からは黒板の文字が見えないことがあります。
もっとカンタンにいえば、右前の生徒から黒板を見ると窓のほうを見るので「逆光」になるんです。
だから窓は左側でなく、後ろのほうがいいです。
そうすると光を背中にしょうことになるけど、このほうがまだ全員に見やすいと思います。
また話がそれた。
ということで彼女はしょっちゅうおじさんのノートを覗き込むんです。
それも通路1つ離れて、斜め後ろの席です。
なんで隣の人のノート見ないの?
まあ、隣の人はかわいそうにいちばん右のいちばん前。
廊下側、入り口のところですね。
彼はもっと見えないでしょう。
そして彼女は黒板を見ようとして斜め後ろに下がるとそこがたまたまおじさんの席、ということなんだろうけど妙に意識してしまいました。
思春期のはじまり。
彼女は水泳部にも所属していました。
おじさんは森田健作の「俺は男だ!」に影響されて剣道部に所属していました。
12月になって最後まで防具をつけさせてもらえませんでした。
1人だけジャージです。
つまりお前は下手だから防具をつける資格なしということです。
ひどい仕打ちですね
さすがにいやになってやめました。
家でも夜、暗い中素振りしてたのに。
これも努力は報われないと感じた1つです。
小学生のときのサッカー部もそう。
2年になってバレーボール部にはいりました。
バレーボールをすると背が高くなるという都市伝説に騙されて。
おじさんはいつも前ならえで腰に手を当てる役だったので、背が高くなりたかったんです。
あれはバレーボールをやると背が高くなるのではなくて、背が高い人がバレーボールをやるのだとわかったのはずっと後のことです
ああ、部活の話はどうでもいい。
家は慶応大学の日吉校舎の近くにあって、夏休みは慶応大学のプールに泳ぎに行くことがよくありました。
300円ではいれました。
そのときは男友達と行ってました。
ビーチボールで遊んでいるとボールが飛んだときに、女の子がそのボールを取って泳いで来ました。
彼女です!
千載一遇のチャンスではないか
ベタな恋愛ドラマでも書かないような出会いのシーン。
そんなところで偶然会うわけないだろう。
事実は小説より奇なりでそれが起きたんです。
まあ、彼女が水泳部だということから、彼女が泳ぎが好きでプールに来る頻度が高かったということはあるけど、おなじところにいても気づかないときは気づかないですよね。
ところがおじさんは、ありがとうとも、何とも曖昧な感じで、なぜかいたたまれなくなってボールを受け取ると何ごともなかったように男友達とその場を離れました。
恥ずかしかったのでしょうか?
中学生ならそうとも言えるけど、おじさんは今ではそうではなくほかの理由があった気がするんです。
付き合ったら結婚しなければならない?
おじさんの親は同年代でも晩婚で、父親は大正生まれでした。
まあそのせいだけでなく、親が変な人たちだったんだろうけど、母親は母親で自分も女のくせに「世の中の女は汚い」といつも言ってました。
ちなみにおじさんには姉と妹がいて男の兄弟はいない。
超、女家族です。
なのに「世の中の女は汚い」?
じゃあ自分や姉、妹はどうなるの?
そう言いながら、男のおじさんはいつか結婚するという前提になっている。
そして「付き合ったら結婚しなければならない」という大時代的な考えでした。
いや昔のほうがむしろ恋愛が自由で寛容だったかもしれません。
通い婚なんかが当たりまえの時代もあった。
このへんもおじさんの精神状態を捻じ曲げる大きな原因でした。
世の中の女は汚いのに、いつか結婚するの?
そこはどう解釈したらいいの?
そのくせ「好きな子いないの?」と聞いたりします。
これは白雪姫の「世界で一番きれいなのはだ~れ?」の問いかけに似ています。
これは質問ではなく、「それはあなたです」という答えを強要しています。
「誰もいないよ。世の中の女は汚いから。ぼくが好きなのはお母様だけです」という答えを求めていたにちがいありません。
さすがにそこまで言わなかったけど、「いないよ」といえば満足だったようです。
生涯、おじさんを自分の奴隷・手下・慰みもの・ペット・家畜・おもちゃ・サンドバッグにしておきたかったようです。
だから、おじさんの場合、ふつうの思春期の男の子が女の子に対して感じる恥ずかしさではなく、多分に母親の呪いが影響していた気がします。
母親に対する隠された「憎しみ」
じっさいおじさんはこの母親のせいで、女性に対する恐怖感・嫌悪感を何となく持っていたような気がします。
生物学的な本能としては女性に興味があり惹かれる。
一方、恐怖感・嫌悪感がある。
家には母、姉、妹がいるにもかかわらずです。
人間も生物の1つとして異性に興味や好意を抱くのは当たりまえ。
自然なこと。
もちろん悪いことではありません。
繰りかえすけど、当たりまえです。当然です。
しかし、いっぽうおじさんの人権を蹂躙する母親 (父親も同じですが) に対して「憎しみ」を抱いていました。
この記事で散々書いてきたように、それは「奴隷の道徳」偽りの「美徳」によって否定されます。
自分を愛して大切にしてくれてる、いや何もしなくても親というだけでありがたがって尊敬しなければならない親に憎しみを抱くというのは「奴隷の道徳」に反するので、闇に葬られます。
ほんとに葬られればいいんだけど、じっさいには心の奥底に「しまいこんだ」「隠した」だけでなくなったわけではありません。
「憎しみ」の感情が生まれると、すぐさま親が植えつけたキラー細胞がやってきて「罪悪感」攻撃をはじめます。
体内の免疫機構はほんとに異物を無きものにしてしまうのですが、「憎しみ」という感情は消えるのではなく心の奥底の「隠し部屋」に押しこまれます。
そして、消えることなくそこで燃えつづけ、煙を出しつづけます。
自分で知らない間に、その火と煙は自分の心と体までも焼きつづけます。
爆発または爆縮
この「隠し部屋」の火は耐えきれなくなって爆発すると親に対する暴力や場合によっては殺人という悲惨な結末を迎えます。
ちょうどおじさんが苦しんでいた同時期に金属バットで親を殴り殺す事件が起きて世間は大騒ぎでした。
まだ他人事だと思っていたけど、大学から就職について考えはじめたころから、親が自分にした非道い仕打ちやそれに対する憎しみが「隠し部屋」から姿を現しはじめ、おじさんも他人事ではないと思うようになってきました。
反対に狂った親が自分の思い通りにならなくなって、口を利いたり動きはじめたサンドバッグを殺してしまうこともあります。
外に向かうのは「爆発」ですが、憎しみを当事者である親に向けられないか、最後まで気がつかず「自分が悪い」と思いこんでいる人は「爆縮」します。
自分の内部にエネルギーは向かい自分自身を滅ぼします。
何もしなくても精神的に廃人同様になってしまうこともあるし、中途半端なエネルギーが残っているときは自殺します。
ブラックホール以上に深くて重い闇に自らを落としめて人生の終焉を迎えます。
異性に対する好意と憎しみ
母親に対する隠された「憎しみ」と、異性に対する「当たりまえの興味や好意」
さらに世間の女は汚いときてる
それにもかかわらず、家には母、姉、妹と女ばかりで、父親と自分以外に男はいない。
そりゃおじさんの心は歪みますわ。
だから恥ずかしいという感覚ではなく、自分でも気づいていなかったこの対立する考えに戸惑い、どうしていいかわからず「理由はわからないけど何となくそこから離れる」という奇妙で不自然な行動になったのだと思います。
繰りかえすけどうちは女ばかりだったので、女性には慣れているはずです。
しかしまともな女ではなく歪んだ女です。
姉はまあふつう。
妹は年も近かったのでよくいっしょに遊んでいて温かく健全な人間です。
だから今でも妹夫婦とは付き合いがあります。
親は、女は花嫁修業して嫁に行けばいいという考えだったので、男のおじさんとは扱いがまったくちがってあまり干渉されずに育ったのでおじさんのような影響は受けませんでした。
おじさんが盾になったというか、スケープゴートにされたといおうか
中学のときに付き合った人と結婚する確率はかなり低いでしょう。
おじさんはまだまだ子どもでした。
ほんとの意味で他人を思いやるほど成熟してないし、幼稚な精神ではちょっとしたことで別れたかもしれません。
でも、おじさんは奇跡的に40歳になって結婚して子どもが1人できたけど、子どもが中学になるとともに離婚しました。
とつぜんキレたわけじゃなくて、妊娠とともにすぐ相手の態度が変わってきてそれから改善することもなく関係が冷えていたけど子どものために我慢していました。
子どもがいなければ1年以内に離婚していたでしょう。
離婚の直接の理由も、元嫁の人生の路線変更によるものです。
だから激しいケンカ別れではなく、「あっそう。じゃ、さよなら」という感じでした。
念のために書いておきますが、浮気とかギャンブルとかいっさいありません。
おじさんは「飲む打つ買う」のうち「飲む」だけで、しかも家でしか飲みません
わざわざ外で高い酒を飲むなら、おなじお金でもっと旨い酒が飲める。
それから、飲んでから電車で帰ってくるのは辛いです。
飲んだらそのまま床にゴロンとなって寝たい。
誤解のないように言っておきますが、「子どもはほんとにかわいい!」
次元がちがうので比較できないんだけど、飛行機でアクロバットしたときより、子どもと過ごしていたときのほうがはるかに幸せで充実していた気がします。
ということで若いからすぐ別れるというのはナンセンスです。
年齢は関係ないじゃんか。
好きな人と一生添い遂げるなんてなかなかむずかしいけど、たとえ1日でもいい。
好きな人といっしょに過ごせるなら。
それもプールで会えるなんて奇跡ではないですか!
べつのそのあと付き合ったり、恋人になったり、結婚したりしなくてもいい。
その日、10分でも好きな女の子と遊べたらそれで幸せです。
その後のおじさんの人生にも影響したでしょう。
じっさい悪い意味で影響しています。
自分とおなじような不幸な子どもをつくりたくない
自分のような不幸な子どもをこれ以上世の中に生み出したくなかったということと、異性に対する何とない恐怖感と嫌悪感で、生物学的には興味があっても、自分は「生涯、結婚しないし、子どもも作らない」と誓っていました。
だからその後も異性と付き合ったことがない。
ただそれでも他人の子どもでもかわいいと思いました。
子どもに「喚き散らしている」幼稚な親を見ると、「何をそんなに怒っているんだろう?」「何が気に入らないんだろう?」と思い、その親を憎みさえしました。
だからまちがって?自分に子どもができたときは自分の血肉をすべてあげてもいいくらいかわいがりました。
じっさいには無理してそうしたのではなく、とにかく子どもがかわいくて
べつに我慢したわけではなくて、子どもを殴りたいと思ったことが1度もありません。
もちろん殴ったことも叩いたこともないし、喚き散らしたこともありません。
それより何倍も抱きしめてあげたいし、そうしました。
花はなぜ咲くの?いつか散るのに
束の間の幸せがあっても永遠に続くわけではない。
それどころか一瞬で終わってしまうことも多い。
でもそれを言い出したら、どうせお腹が空くんだから食べてもしょうがないよとか、どうせ死ぬんだから生きててもしょうがないよとかおなじことになります。
たとえ一瞬でも幸せで楽しい時間があるならそれを享受しましょうよ。
というか、逆にそんな幸せな瞬間はめったにないんだから、そのときこそ充分に味わっておくべきです。
人生の中で貯め込んだ、家や車や金などは何もあの世に持って行けない。
死んでしまえば何も残らないけど、人生の中でいちばん大事なのは「経験」です。
何をして、そのとき何を感じたか?
それ以上の宝物はないんです。
むすび
だいぶ、とっ散らかったので最後にまとめます。
知るべきことで大事なことは3つです。
- 親は親の欲望を満たすためにあなたに「いつでも無条件で親 (人) にすべてを譲り渡し奉仕する」ように調教した。
- それを守らせるために奴隷の道徳を「美徳」と称して、もし親 (人) に譲らず、自分のものにしようとしたり、欲しいと思うだけでも「罪悪感」を覚えるように調教した。
- あなたは奴隷でもないし、罪もない。
あなたには他人とおなじように生きる権利があり、あなたは他人に対するのとおなじように、いやそれ以上に「最優先で」自分を大切にやさしくしてあげてください。
自分を大切にすることに何も負い目を感じる必要はありません。
ほかの誰でもない。
あなたがあなたを世界でいちばん大切にしてください。
親の呪いのせいであなたは親を離れてもいつでも何でも他人に譲り、それに反する気持ちが生まれたり、行動したりすると罪悪感を覚えるようになってしまいました。
あなたはどんなに努力しても、一所懸命がんばっても、いつでもすべて人に譲り渡してしまうので手元には何も残りません。
努力しても報われないのは、成果や報酬をあなた自身が手放して、すべて他人に与えてしまうからです。
まずこのことをよく理解して、ふだんの自分の心の動きと行動を、親の冷たい目ではなく、自分自身の温かい目で見守り、奴隷の道徳に基づいて行動しようとしたら、
「自分は誰の奴隷でもない」
「親はもちろん世間の誰の奴隷でもない」
「それは他の人たちもおなじ」
「自分は特別ではない」
「他の人たちとおなじように正当な自分の権利がありそれを守るために行動するのに何もやましいことはない」
「自分は自分の当たりまえの権利を主張するだけ」
「自分は自分の正当な権利を守るために行動するだけ」
「自分が努力した結果は自分で享受してよい」
「自分の努力の報酬をもらうのは当然」
そして
「世界でいちばん自分が大切」
と何千回でも、何万回でも、無意識にできるまで心のなかで唱え、そのように行動します。
あなたはけっして特別ではありません。
他の人たちとおなじように1人の人間としての権利があります。
繰りかえします。
あなたは誰の奴隷でもありません。
あなたにはあなたの生きる権利があります。
ほかの人とおなじように。


