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「死」「特別ではない」「珍しくもない」「当たり前のこと」「生まれ変わることはない」
ちょっと冷たい感じがしますが、子どもを亡くした女性の話を聞いてください。
キサー・ゴータミー~子どもを亡くした女性
ブッダがコーサラ国の首都シラーヴァスティ (舎衛城) にいたときのこと。
ひとりの女性が子どもを亡くして嘆き悲しんでいました。
名をキサー・ゴータミーといいます。
ブッダのことを聞きつけ、ブッダのもとにやってきました。
「ブッダよ。どうか私の子どもを生き返らせてください」
「それなら、すぐ手に入りますわ! 」
キサー・ゴータミーは村を一軒一軒回りました。
やがて夕方になりブッダのもとに戻ってきました。
「いいえ。死者をひとりも出したことのない家なんてどこにもありませんもの」
キサー・ゴータミーはもうわかっていました。
死は珍しいことではない。
辛い、悲しい思いをしているのは自分だけではない。
ということを。
身近な人を亡くしたばかりのあなた
あなただけが特別なのではありません。
また、私もあなたもいつかは必ず死にます。
それは、10年後かもしれないし、明日かもしれないし、瞬きしたまさに次の「瞬間」かもしれません。
早いか遅いかのちがいだけで、どんなに長くても100年が限度です。
亡くなった人は、自分のために、あなたが悲しみに打ちひしがれ、やつれていくのを望んではいません。
すぐには無理でも、「死は特別なことではない」「自分もいつかは必ず死ぬ」ということを意識して、生きてる今を大切にしましょう。
サーリプッタとモッガラーナ
こんなブッダもかわいがっていた二大弟子、サーリプッタとモッガラーナが亡くなったときは嘆き悲しみました。
サーリプッタは病気で、モッガラーナはなんと異教徒に殺されてしまいました。
モッガラーナは神通力があるとされ、いろんな世界を見てこの世に戻ってきて、
「ブッダの教えに従った人は幸せになり、異教に従った人は不幸になった」と言ったので、異教徒の信者が減り、それを異教徒が恨みモッガラーナを殺したんだそうです。
サーリプッタはパーリ語の呼び名で、サンスクリット語ではシャーリプトラという。
お母さんの名前が「サーリ (シャーリ) 」。プッタ (プトラ) は「息子」という意味。
つまり、「シャーリの子」という意味。
般若心経に出てくる「舎利子 (しゃりし) 」はサーリプッタのこと。
「舎利」は「シャーリ」の音写。
「プッタ」は「弗 (ホツ) 」と音写され、「舎利弗 (しゃりほつ) 」とも呼ばれる。サンスクリット語でputra (プトラ) がパーリ語でputta (プッタ) 。
このようにパーリ語は前後の子音が同化する傾向がある。例:)
「お経」sutra (スートラ) →sutta (スッタ)
「涅槃 (ねはん) 」nirvāna (ニルヴァーナ) →nibbāna (ニッバーナ)
「ブッダの名前」 Śiddhārtha (シッダールタ) →Siddhattha (シッダッタ)(以上、ウィキペディアより抜粋、加筆)
mortal「死すべきもの=人間!」
英語、スペイン語共通の言葉で「死すべきもの」「死ぬ運命にあるもの」という意味ですが、
なんと「人間」という意味も表します。
そもそも「死すべきもの」という単語があるのがすごい!
ヨーロッパ人のほうが「死」に対する意識が高いではないですか。
比較言語学
それとも「インド・ヨーロッパ語族」という言葉があるくらい、インドとヨーロッパは共通点があるのでしょうか。
「印欧祖語 (インド・ヨーロッパの元になる言葉) 」があり、古代インドのサンスクリット語とギリシャ語、ラテン語などはそっくりです。
もちろん単語が似ているだけなら「外来語」として取り入れただけですが、文法も似ているのでこれらは共通の言葉から派生したとされています。
こうしたことを研究する学問を「比較言語学」といいます。
ヨーロッパの言語はかなり研究されていますが、日本語はどこから来たのかまだよくわかっていません。
韓国語に似ているとか、いやアルタイ語に似ているとか、「ドンドン」とか「コンコン」とかいう畳語は南のポリネシアの特徴だとか。
比較言語学についてはこちら↓
ロマンス語 (英語とラテン語の関係)その1~ノルマン・コンクエスト
「死」が見えなくなった。
昔は、大家族で家に必ずじいちゃん、ばあちゃんがいて、医療も発達していなかったし、病院やお医者さんも近くにいなかったので、家で家族が見ている前で死ぬことが当たり前でした。
子どももたくさん生まれ、生まれてすぐ死ぬ赤ちゃんもたくさんいました。
それこそ、珍しいことではありませんでした。
ところが、核家族化して、さらには一人暮らしが増えました。
大家族であっても、現代は、病気や事故、怪我があるとすぐ病院に運ばれます。
病気の場合は、本人はまだ元気でも早い段階で家族から引き離され、病院に収容されます。
家や、職場の事故、交通事故でもすぐ救急車で病院に運ばれます。
手術中は家族でさえ手術室に、はいれません。
そして、臨終を看取るのはお医者さんだけなんです。
交通事故に遭遇しても、自分の目の前で人が死ぬのを見た人はまずいないでしょう。
テレビのニュースや番組で、戦争、事故などの衝撃的映像がこれでもかというくらい流れますが、人が死ぬところは流しません。
毎日、大勢の人が亡くなっているのに「死」は見えません。
だから、現代の日本人にとって「死」は自分とは無縁のもの、特別なことのように感じられるようになってしまったのでしょう。
「死」を見ないので、「自分もいつかは必ず死ぬ」という当たり前のこともわからなくなっています。
マンガ、アニメ、ゲームの登場人物は死んでもすぐ生き返る。
それが自殺、または平気で人を殺すことにつながっているような気がします。
「〇〇ボール」とか、良くないマンガ、アニメの代表です。
死んだら、「最後」です。
微生物に「分解」されるか、焼かれて「灰」になるか。
生き返ることはありません。
生まれ変わりもありません。
あの世も、極楽も、地獄もありません。
分解されて、小さな分子や、原子に戻るだけです。
ドラマや映画で美化されますが、「死」はけっして美しいものでも、感動的なものでもありません。
ドラマや映画で「死」が取り上げられ、主人公やそれに準ずる中心人物が死ぬのは、「死」が人間にとっていちばん「恐れるもの」「心を揺さぶるもの」だからです。
ニュースやその他の番組で、海外の戦争や、地震などの災害ばかりが報道されるのは、「視聴率が上がる」からです。
近所でかわいい子犬が生まれましたというニュースでは視聴率が上がらないからです。
それだけ人々は「死」を恐れているのです。
みんな「死にたくない」「できるだけ長く生きていたい」と思っています。
そればかりか自分は平均寿命の80歳くらいまでは生きると思っています。
「死にたくない」が「苦」を生む原因にもなっています。
これはまた別の記事で書きます。
人が死ぬと「心を揺さぶられた」ことで「感動した」と勘違いしています。
でも、特別なことでも、珍しいことでもありません。
だからこそ、生きてるうちに「できること」「やりたいこと」をやっておきましょう。
もちろん、人の道を踏み外さない範囲でね。
健康上なんの問題ないあなたも、明日、いいえ瞬きした次の「瞬間」には死んでいるかもしれません。
もっと身近に、日常的に「死」を目にしていれば、「死」は「残酷」で「無慈悲」で「二度と元に戻ることはない」ものだと認識するでしょう。
美しくもないし、感動的でもない。
そうすれば、簡単に自殺したり、人を殺したりしないと思うのですが。
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